Under the tree







 
 
 おとうさまが外出なさってから何日もたちました。
 お庭は葉っぱで黄色く染まっています。木の実を齧りに巣を出てきたリスも、体をまるめて寒そうです。
 わたしはニットの肩かけをして、きりかぶに座って一人で遊んでいました。お家とお庭は白い柵で囲まれています。真新しさはありませんが、おとうさまとおかあさま、それにわたしをあわせて三人で住むには十分です。今はおかあさまと二人だけになってしまいましたが、やがて昔と同じになるでしょう。
 靴と靴の間を、お菓子の屑を運ぶ蟻が一列に歩いていきます。自分の体重よりずっと重いものを持ち上げられるというのですから大層なことです。ビスケットを指の平で崩したのを、蟻は待ちかねていたかのようにどんどん運んで行きました。
 きりかぶに座って、わたしは毎日そうやって虫の観察をしたり、あやとりして遊びました。遠くには湖があり、山があり、羊や豚を飼っている牧場があります。お父さまがお家にいらっしゃった頃に、何度か連れて行ってもらった覚えがあります。湖にはお魚がいて、おとうさまが釣ったのを、おかあさまがお料理しました。山の色は季節ごとに色を変え、名前の知らない動物を、見かけるごとにはしゃぎました。
 町から帰る途中だったある時に、おとうさまは嫌な顔をされました。生臭い臭いと、どこからか耳に染みいる悲しい声。日が暮れかけた道で耳に入ったそれを「なんでしょう」と尋ねると、おとうさまは黙ってわたしの頭をなでました。おとうさまがおかあさまと長いキスを交わして、わたしを強く抱きしめて家を出て行かれたのは、その声を聞いた日からすぐのことです。
 冬と春と夏をこして、またおとうさまが出ていかれたのと同じ季節になりました。こうして座っていると、おとうさまがご自分で仕立てた帽子を振って、道を上ってきてくれるような気がします。わたしたちが三人で住んでいた時のように、町で買った両手いっぱいの花をたずさえて。
 蟻はもうすぐ食べ物がなくなるのを知っているような足でそそくさと、せっせとして歩いています。転々とする白っぽいものはほとんどがビスケットでしたが、何匹かは力を合わせ、もぞもぞ動いている透明な幼虫を持ち去ろうとしていました。
 「こんにちは」
 ポストの横に、太った男の人が立っていました。前にも来たことがあるので知っています。
 「こんにちは、トーマスさん」
 男の人の名前はトーマス・ジャスティンさんといいます。ぱりっと糊づけしたシャツに、高級そうなスーツをいつも合わせています。ふくよかなお腹の脂肪は、きつく締めあげたベルトのせいで半分以上が誤魔化されています。
 「ママはいるかな」
 トーマスさんはお家の方を短く見て、庭をきょろきょろ眺めまわしました。まあるく小さな茶色の目は、まぶたにはれぼったく肉がついていて、庭を隅から隅まで眺め渡す様子は、雌犬を追い回す犬を思い出させました。
 「残念、トーマスさん。今はいないのよ」
 「またどこかに出かけているのかな」
 「そうよ」
 「いつ戻るかな」
 トーマスさんは子供の機嫌をとるような目でわたしを見ました。このお天気なのに、額に汗をたくさんかいています。脂っぽい顔から目を逸らしてわたしは答えました。
 「さあ…でも今日はだめよ。とても遠くにいったから」
 トーマスさんは「畜生め」と悔しそうに歯ぎしりし、お庭に唾を飛ばしました。その手には、何かがずっしりつまった鞄があります。トーマスさんが前来た時に、わたしはおかあさまに中身を尋ねました。おかあさまはとても悲しい顔をして「大丈夫、心配ないわ」とつぶやきました。
 「このお家もお庭も、手放したりなんかしないわ。おとうさまの帰られる場所ですもの。おとうさまが帰ってこられる日のために、ちゃんと残しておくの」
 おかあさまはそう言いましたが、おとうさまがお戻りにならないまま、一年がたっています。出されたコーヒーを遠慮していた男は、今じゃわたしのことを馴れ馴れしく名前で呼ぶようになりました。呼ばれるたびに、背筋がぞっとするような、気持ち悪さにおそわれれるのですが、わたしはそれを何と表現していいのか分かりません。
 「戻ったら、大事な話があるとわたしが言っていたと伝えてくれるかい」
 「ええ、分かったわ。トーマス・ジャスティンさん」
 トーマスさんは帰りかけましたが、ふと振り返って首をかしげました。
 「なんだか変なにおいがしないかい?」
 「そうかしら、そうかもしれないわね」
 「生臭い気がするんだが。肉か野菜が腐ったような」
 「きっと工場のせいよ」
 わたしは柵の向こう、丘の下を指さしました。
 お父さまが何故あんな顔をしたのか、今のわたしには分かっています。牧場から出荷された豚は工場に運ばれて解体された後市場に出され、それを町の店が買いつけて、家の食卓に並ぶのです。もっとも近頃では、わたし達のテーブルにお肉が並ぶのは、めっきりなくなっているのですが。
 「風向き次第で臭いがここまで上がってくるのよ」
 わたしが言うと、トーマスさんは眉を上げて、
 「それじゃ値段が下がっちまう」
 ぼそりつぶやき、わたしたちの家をじろりと見ました。ですが、すぐに何にもなかった顔で作り笑いを浮かべました。
 「それじゃ、また今度」
 「さようなら、トーマスさん。お気をつけて」
 トーマスさんは車に乗り込んで、坂道を下って行きました。わたしはおとうさまが現れるのを待っていましたが、この日もお戻りになりませんでした。膝に落とした目を地面に移すと、もう蟻の行列はなく、ビスケットも幼虫も消えていました。
 わたしは立ち上がって服に付いた食べこぼしを手で払い、柵に沿って歩きました。薪をうず高く積んだ荷台の脇をくぐりぬけ、がらくたの鉄パイプに服を引っかけないように気を付けて進みます。直角に突き当たった柵を右に曲がって家の裏手へと出ると、そこにはもう一つの秘密の遊び場があります。おとうさまとおかあさま、そしてわたししか知らない場所です。
 柵の向こうから張り出した木の枝にくくりつけたブランコが、そよ風にきしんだ音を立てています。家の修理に使ったレンガや麻の袋が重なったのが、家の壁沿いに積んであります。おもてからは屋根に遮られて、てっぺんの部分しか見えないので、家族以外にここを知っている人はいません。柵の向こうには林が続いており、いつか柵を乗り越えて冒険しようと胸に思い描きながら、まだ実行に移せずにいます。おとうさまが戻られたら、きっと手をつないで、一緒に探検しようと思います。
 ブランコに座って漕ぎだすと、景色と一緒に天国までのぼっていくようです。地平に落ちかけた太陽が、卵の黄身色をしていて、とろりと溶けそうでした。あれだけの大きさの卵は、この世に一つしかないでしょう。割っても割っても、翌日には新しく生み落とされる卵。お庭の小屋に飼っている鶏のものとは全然違います。
 腕に力をいれると、縄がぎしぎし言って身をよじりました。手の豆が潰れるぐらい一生懸命漕いだら、もっと遠くまで見られるのでしょうか。もしかしたらお船に乗っているかもしれないおとうさま、プロペラ機に乗っているかもしれないおとうさま、手をつないで歩いた道をてくてくと、離れていたなんて嘘のような笑顔で帰ってくるおとうさまを、見つけられるでしょうか。
 でも、残念なことに、わたしの手はそんなに強くありません。逆さまのアーチをかくことはできても、体の方が投げ飛ばされてしまうでしょう。
 黄金色に照る太陽がまぶしくて、わたしは目を細めました。そうしてしばらく漕いでいると、段々と腕がだるくなってきたので、漕ぐのをやめて家の中に入りました。風も冷たく感じてきました。
 台所でおかあさまがスープを作っています。お鍋がコトコト、湯気を立てています。良い匂いにお腹がぐう、と鳴りそうです。
 「さっき、トーマスさんがきたのよ」
 わたしはおかあさまの腰に抱きつきました。おかあさまの優しい手が、わたしの髪をゆるくなでてくれました。おかあさまは物憂い、少し悲しげな顔をしています。おとうさまが出ていかれてからずっと寂しそうです。
 わたしは嘘をつきました。おかあさまはこうしてお家にいらっしゃいます。でも教えたりなどしません。わたしの大事なおかあさまなのですから、おとうさま以外の男の人に見られたり、触られたりして欲しくありません。
 おかあさまからはミルクのような甘い匂いがしました。こんなに素敵なおかあさまとお家を捨てて、おとうさまがどこかへ行ってしまうなんて絶対にないことです。必ず帰ってくると言ったおとうさまの言葉を、わたしは信じて待っています。


 ―お家のお話をいたしましょう。わたしたちは三年と半年ほど前に、生まれた国を離れて今のお家に移りました。どうして元のお家を出なければならなかったのか、わたしは知りません。ただただ急ぐようにして、おとうさまとおかあさまに連れてこられました。
 どの道をどうたどったのか、ここに来た時のお家は今のように整っていたわけでなく、柵はくずれ、壁のペンキがはげ落ちた「ほったて小屋」でした。
 おとうさまは林の木を切って、柵を作り直し、壁の穴をふさぎました。おかあさまがペンキを塗りなおしました。わたしはごみを拾って集めました。積もった枯葉、つまずきそうな石、ごみ屑などをです。
 柵を直していたおとうさまが、わたしとおかあさまを呼びました。錆びた荷台をどけてまわりこんだ裏手には、木にぶらさがったブランコがありました。おとうさまはまずご自分が座ってお確かめになった後、わたしを膝に乗せて地面を蹴りました。それを見たおかあさまは、おとうさまの背中を押して、幸せそうに笑んでいらっしゃいました。
 ブランコの周りは腐った木の葉でいっぱいでした。柵の向こうから張り出した木の枝から降ってくるのでしょう。おとうさまは踏み台を使って、伸びすぎた枝をぱちんぱちんと切り落としました。後日には縄を取りかえて、わたしが一人で遊べるようにしてくださいました。
 丘をずっと下ると町があり、ときどきには食べ物などを買いにいきます。おとうさまと 二人連れだって、自転車に乗って初めて買い物に行った日、おとうさまはかわいらしい人形をわたしにプレゼントしてくださいました。わたしはそれを大事に部屋に飾っています。以前はおかあさまと買い物をしましたが、今は体調を悪くしているのでわたしが買い出しに行きます。帰り道に牧場に寄って、鶏を三羽買ったのもわたしです。そのうち一羽はおかあさまが包丁でさばきました。残りの二羽は、小屋の中で卵を産みます。わたしたちは鶏を買ったその日、肉の入った温かいスープを久しぶりに口にし、よくる日の朝は、金切声をあげる鶏の鳴き声で目を覚ましました。
 "卵取り"は、わたしの仕事でした。木組みの小屋の壁には、木片を組み合わせた受け皿が取り付けられていて、毎朝そこに二つ三つ転がっています。生みたて卵は生温かく、中にヒナが入っていそうなのに、フライパンで焼いた目玉焼きには足もくちばしもないのが不思議です。
 「だってわたしには、目も鼻も、口だってあるのよ」
 おかあさまは白い手でわたしの頬に触れ、「あなたはおとうさまとわたしの子ですもの」と、微笑みました。おかあさまの髪は金色で、絹糸のように手触りが良いですが、わたしのは真っ黒です。それもどうしてと尋ねましたが、おかあさまは「おとうさまとわたしの子だからよ」と、もう一度同じことを繰り返しました。
 「小屋の鶏とは違うのよ」
 おかあさまは目玉焼きをナイフで二つに割りました。

 じゅうじゅう焼いた目玉焼き。
 とろり 膜を破って流れ出た わたしになり損ねたあかちゃん。



 一週間後、トーマスさんがまたいらっしゃいました。決まって黒塗りの自動車に乗ってやってきます。
 「こんにちは、ママはいるかな」
 わたしはきりかぶに座った格好で、ちょこんとつま先をそろえました。
 「こんにちは、トーマスさん。ママはもうすぐ帰ってくるわ」
 「今は家にいないのかい」
 「ええ、わたし待ってるの」
 トーマスさんは不服そうな顔をしました。この前にもいなかったのに、またかという顔です。
 「トーマスさんは、いつも何を持っていらっしゃるの?」
 わたしは皮張りのトランクに目を注ぎました。
 「とっても重そうね」
 「そうでもないよ、書類が入っているだけだから。それよりママは何時頃もどってくるんだい」
 トーマスさんは時間を気にしてちらちら時計に目を走らせます。
 「分からないわ」
 「分からないだって?小さい子を一人にして出掛けたというのかい?」
 わたしは強く首を振りました。
 「わたしは一人でないわ。ママは帰ってくるもの。おとうさまもよ」
 そう言って、トーマスさんを睨みました。トーマスさんは舌打ちして、わたしなんか無視して勝手に家の中に上がり込みました。五分もすると、すっかり眉を寄せたしかめ面で外に出てきましたが、茶色い目がぐらぐらと、熱い火にかけたように揺れています。
 「おじょうちゃん、ママにくれぐれも言っといてくれ。今度の今度は絶対に家にいるんだ、とね」
 わたしは頷きました。トーマスさんはママに何かご用があって、いつまでも会えないのをいらいらしています。真っ黒なトランクの中には書類などではなく、本当は銃でも入っているのではないでしょうか。
 「おじょうちゃんは、ここが好きかい」
 「ええ、ええ、大好きよ。わたしとおとうさまとおかあさまの家ですもの」
 ふうん、と、トーマスさんは、煙草の吸い殻を捨てました。そしてワックスを塗ったぴかぴかの靴でそれをぎゅうぎゅう踏みにじりました。その目はわたしを頭のてっぺんからつまさきまで、じろじろ眺めています。犬に舐めまわされているような視線に、わたしは肩を縮めました。
 「そうかい」
 トーマスさんは、にやりと笑いました。
 「でも、君のママと話ができないなら駄目だな」
 「それはどうして」
 ふん、とトーマスさんは鼻を鳴らしました。
 「君たちが住んでいるこの土地は、わたしたちが買い上げることになったんだ。軍隊の偉い人がここを気に入って、別荘をつくりたいというわけだ」
 「そんなのって駄目よ」
 「だからさ、」
 トーマスさんはいやらしい目をにたりとさせて言いました。
 「君のママと話し合わないといかんのだ。ねぇおじょうちゃん。きっと君は、ママがどこにいるか知っているんだろう。隠れたって駄目だ!」
 トーマスさんは急に声を荒げて汚い言葉をわたしに浴びせかけました。弾丸のような速さで喋るので、わたしはその半分も理解できません。わたしの知らない言葉は、けれどたぶん、私たちを褒めていない類のものです。
 蛙を潰したような顔のトーマスさんは、そこでぴたりと口を閉じました。そしてまた、いつもの、狼が子山羊を騙す時のような、なめらかな声音で言いました。
 「お願いだよ。どうしても君のママに会わなきゃいけないんだ。美しいエレーナ、真珠のように白い肌をした君のママにね。だがもし金輪際というのなら、君も工場におくらなきゃならん」
 トーマスさんはぐるりとあたりを見定めて、大声で言いました。
 「工場におくらにゃならん!」
 静かな空気が、引き裂かれたように悲鳴を上げた気がしました。わたしはというと、目と体をかちこちの石のようにしていました。トーマスさんは目を凝らして玄関を見ていましたが、開かないのを確認すると、ようやくお帰りになるそぶりを見せました。後ろ向きになった顔の鼻が、すんと鳴ったかと思うと、トーマスさんは「妙なこった」と呟きました。
 「前より臭いがきつくなってやがる」
 「工場のせいよ。ほら、ここ最近はもう、煙突から煙が上りっぱなしだわ」
 「ふん、君は工場に行ったことがあるのかね」
 「一年前に一度だけ、傍を通りかかったわ」
 「何か見たかね」
 「いいえ何も。血の臭いがしていたのと、か細い豚の声を聞いた以外は」
 「パパがどこに行ったか知ってるかい」
 「いいえ。でも、必ずお戻りになるの」
 トーマスさんはひくつかせた鼻の動きを止めて、無表情でわたしを見ました。凍てついた目には何の気持ちも張り付けられてはいませんでした。しかしそれは、ほんの二、三秒のこと。トーマスさんは背中を向けて出て行きました。煙突をかえるよう要請せねばと、もごもご独り言を言いながら。
 わたしはうなだれてブランコに座りました。お父さまは今日もお戻りになりませんでした。兄弟のいないわたしには、蟻と鶏の他に遊び相手がおりません。悲しくしていらっしゃるおかあさまを、わたしの遊びにつきあわせるのは、ほどほどにするべきです。
 おかあさまが来て、わたしの頭を撫でました。
 「今日もトーマスさんが来たわ。何だかとても怖かった」
 おかあさまは白い両手でわたしの頬を包みました。青い両目は双子の湖のよう、さらさらの長い髪は太陽の光を浴びてきらめく滝のようです。
 おとうさまがいない間、おかあさまを守れるのはわたしだけです。わたしの両目と髪はおとうさまと同じ黒色。わたしはおかあさまと額を合わせました。
 
 おとうさまを探しにいこう。
 おとうさまはどこにいるかしら。

 すんと鼻鳴らすと、風に運ばれた血の臭い。
 
 こ う じょ う。


 *


 まあるいお月さまの浮かんだ空の下、うねった道を歩きます。おかあさまをベッドにお休みさせて、わたしも寝た振りをしました。真夜中に支度をして足音をしのばせ、お家を出ました。お月さまの金色は、今夜はとても低い場所にあります。地面をはう黒々した陰に、そのまま食べられてしまいそうなほどです。
   工場は町から離れた場所にあります。家の窓から高い煙突が見えますが、どこから行くのか、道がないのです。町から道が走っているのかと思いましたが、探してみてもそんな道はありませんでした。
 トーマスさんはわたしを工場におくらにゃならんと言いました。それだったら、トーマスさんは工場への行き方を知っていることになります。もしかすると、おとうさまも工場にいるのではないでしょうか。トーマスさんは「君『も』」と言いましたもの。
 わたしは立ち止まって柵で仕切られた野の向こうに目を凝らしました。地面に垂直に立った煙突の頭が、月の光に照らされています。道がないなら煙突に向かって歩いていくのが方法です。わたしは禁止の立て札を無視して柵をまたぎ、野の中を煙突目指して歩きました。
 近づくにつれて、変な臭いが鼻をつきました。丘の上で嗅いだよりも強烈です。消毒液を撒いたような、つんとした臭いも混ざっています。それに足して、ごみが腐ったのと、甘いような臭い。多分、臭いのをアルコールでごまかしているのでしょう。糞やおしっこを放置したような臭いは、それでもずうっと離れたここまでただよってきます。
 歩いて歩いて、歩くのをやめた最後には、煙突は見上げるほど大きくなっていました。
木造舎が三つとコンクリートの建物が一棟、金網で囲まれた中にありました。高い煙突はコンクリートの建物についています。それはまるで、大きなお墓のようでした。
 わたしは金網の周りを歩きました。入口らしい場所を見つけましたが、鍵がかかっていて開きません。その他には、入れそうな所などありませんでした。
 もし、おとうさまがここにいるのなら、やはりどこからか入って、見つけなければなりません。わたしにはもうトーマスさんが我慢なりません。おかあさまの手に触れていいのも名前を呼んでいいのも、おとうさまだけです。それに、絶対にわたし達の家を手放すわけにはいかないのです。

 だけどいなかったら。

 胸の内をぎゅっと潰して、わたしは手さぐりにあたりを調べました。すると、四つ角の一つに、土を掘った穴がありました。網には切れた布きれが引っかかっていました。大人は無理でしょうが、わたしぐらいの子供なら、体を丸めて通り抜けられそうです。背を低く低く、腰をおとして腹ばいになり、わたしが遊ぶ蟻のように地面に顎を擦りつけてくぐりました。音が鳴らないように気を付けながら。
 木を組みたてた櫓に、小さな灯がともっています。誰か人がいるようですが、眠っているのか、微かないびきが聞こえました。わたしは舎の裏にまわり、覗き穴がないか探しました。それにしたってひどい臭いです。ここにいるのは、本当に豚かそのようなものなのでしょう。舎は豚小屋で、働く人が寝泊まりしているのはコンクリートの建物の方かも知れません。人が何かするには舎の方は小さすぎますので。わたしは灰色の壁に向かいました。
 コンクリートの建物は、近くで見ると、小さな窓が一つだけついているだけの、ただの箱のように見えました。家の台所にある石焼き窯を、そのまま大きくしたような感じです。その小さな窓も、ブロック一つ分ぐらいの大きさで、窓というより灯取りのようです。入口の扉には錠前式の鍵がかかっており、開きそうにありません。
 こんなに沢山歩いたのに何にも収穫がないなんて。服に泥がついただけ。
 わたしは途方に暮れました。戻ろうか、もう少し探してみようか―。
 「」
 誰かに呼ばれた気がしてわたしは振り返りました。内緒の話をするような、ごそごそした、風の音、いえこれは。
 わたしは声のする方に歩きました。さっきの窓、小さな小さなガラスが、その時には開いていました。恐る恐る近づいて、わたしは窓を見上げました。喉に悲鳴が上りかけました。窓から腕が伸びていました。どんな腕か、光が足りなくてよく見えませんが、痩せた右腕です。右腕は付け根いっぱいまで伸ばして、壁にだらりと垂れていました。
 わたしが腕に触れると、腕は小刻みに震え、感電したように指を立てました。
 「誰かいるのかい」
 「わたし、おとうさまを探しにきたの」
 「女の子か。おとうさまはどんな顔をしているんだい」
 「おとうさまは黒い目で、黒い髪よ。帽子の仕立屋をしていたわ」
 「おとうさまがいなくなったのはいつのことだい」
 「もう一年たつわ」
 右腕は動きを止めました。棒きれのように。
 「おじょうちゃん、ここには君のおとうさまはいないよ。きっともういなくなった」
 「あなたはここで何をしているの」
 「働いているんだ。毎日ね」
 「おとうさまもいたのかしら」
 「かもしれないね」
 「中には入れないのかしら」
 「無理だと思うよ」
 おじょうちゃん、と腕が動きました。
 「はやくお帰り。でもちょっとだけでいいから、手を握らせてもらっていいかな」
 開いた手の平に、わたしは用心して自分のを合わせました。子供の手ではありませんでした。広い手の平、長い指。おとうさまの手に少し似ている気がしました。ただ、それは、分厚くなった皮でがさがさしていました。力なく、しかし間違いなくそれは体の一部でした。そしてどうしてか、生乾きの糊をくっつけたように粘々としていました。
 「おじょうちゃんも、黒い目と黒い髪をしているのかい」
 「そうよ、でもおかあさまは青い目と金色の髪をしているの」
 「遠くにいかないのかい」
 「いかないわ。お家があるもの」
 わたしは手を振り払いました。
 「さようなら」
 「さようなら」
 来た道を戻って穴を潜り、野を歩きました。月が煙突の上にさしかかっていました。煙突の長い影は丸い光に針を突き刺したようでした。臭いが風上に登っていきます。風が吹きあがる先へとわたしは歩きました。歩きながら、涙が出ました。町にも工場にもいないのなら、おとうさまはどこに行かれたのでしょうか。おかあさまとの結婚記念日にも、わたしの誕生日にも、お戻りにはならないのでしょうか。
 家に入る前に涙を擦って、おかあさまとおとうさまの寝室に行きました。二人用のベッドにおかあさまが一人で眠っていました。昔はその真ん中に横になって、頂いたお人形を抱いて、眠気がするまでおとうさまに本を読んでもらいました。うさぎとキツネがお菓子をとり合う話です。今はわたしの部屋に置いてあります。
 わたしはおかあさまの頬にキスして戻りました。眠る前に顔を洗おうと洗面所に向かいました。灯をつけると、ぼうっと白い顔が鏡に映りました。わたしは鏡に手を触れました。ぬるりとした感触。鏡が赤く汚れました。こすると汚れはなおのこと広がり、鏡のわたしはずっと赤くなっていきました。
 「おとうさま、おとうさま」
 わたしは叫びました。目を閉じ鼻に空気を出し入れするのをやめ、耳をふさいでしゃがみ込みました。真っ暗な夜。おとうさまは帰ってきませんでした。





 わたしはきりかぶに座っています。工場から立ち上ってくる臭いはますますひどくなり、マスクするだけでは防げなくなりました。わたしの鼻はもう麻痺してしまったので、あまり気にはならないのですが。
 早朝、鶏に餌をやり、ブランコの縄が弱くなっていたので直しました。木の板や石のブロックを積み上げれば、わたしでも枝に手が届きます。直した後は、一人でそこにいました。ぼうっとしていると、おかあさまがやってきて、背中を押して下さいました。光はまだ柔らかく、昼になればトーマスさんがまたやってくるでしょう。わたしは膝を払ってブランコを降りました。
 「やあ、またいたね」
 黒塗りのぴかぴかした車から、トーマスさんが出てきました。顔に大きなマスクをつけています。トーマスさんはそのマスクを半分外し、「こりゃ臭い」と、顔をしかめました。
 「工場に話をつけて、煙突をもっと高くすることにしてもらったよ。数週もすれば臭いはマシになるだろうさ。おじょうちゃんは臭くないのかい」
 「わたしは大丈夫。トーマスさん、煙突は大分高く作るのかしら」
 「ああ、出来るだけ高くなるかと思うよ」
 「臭いは大分遠くへ流れていくの?」
 「国境を越えるぐらいにね」
 トーマスさんは鞄を揺らしてへらへら笑いました。
 「おじょうちゃんは工場なんかに行きたかないだろう。この家だって、手放したかないだろう。おじょうちゃんの目は真っ黒、髪も真っ黒だ」
 わたしは首を傾げてトーマスさんを見つめました。
 「おかあさまに会わせてさしあげる」
 「そうか、そうか。今日はいるんだねぇ。あの素晴らしい金髪とはすっかりご無沙汰だ。じっくり話をしたくてたまらなかったんだよ。エレーナはどこにいる?」
 こっちよ、とわたしは案内しました。柵沿いに歩いて、網とパイプが積み重なった脇を通ります。トーマスさんは腰を屈めながら後ろをついてきました。
 「家の後ろに何かあるのかい」
 「行けば分かるわ」
 わたしは先頭を歩きました。柵の角を曲がると、縦長の空き地が目の前に広がります。ブランコが、きぃきぃ音を立てて揺れています。
 「おかあさま、トーマスさんよ」
 わたしは呼びかけました。
 「おかあさまにお話があるのですって」
 トーマスさんにも呼びかけると、トーマスさんはお人形にでもなったかのように止まっていました。マスクのゴムが耳に垂れています。見開いた茶色の目で、ブランコを見ています。分厚い唇がわなないて、何かを言おうとしますが言葉になりません。ぶるぶる震える指でわたしを指さして「あ、あ、あ」としゃがれた声を引き絞ります。後ずさろうとした足が地面につまづいて、どしんと尻もちをつきました。鞄が落ちて転がりました。丸く太った体はもがいて起きようとしますが、膝がまったく立ちません。
 
 ぎぃ。

 おかあさまが揺れました。

 
 「どうしたの、トーマスさん。あんなにおかあさまに会いたがってたのに」
 わたしはトーマスさんに近づきました。前にはわたしに怒鳴りつけたのに、トーマスさんはひいひい言って後ずさりします。
 「あんなにおかあさまを好きだったのに」
 わたしはトーマスさんの目を覗きこみました。茶色くまあるいお目目に、自分の黒い目を重ねました。
 トーマスさんがおかあさまに何をしたか知っています。臭いがこれほどひどくなる前のことでした。わたしは寝室のドアの隙間から二人を見ていました。ベッドの上におかあさまの白い太ももが揺れていました。泣き声のような、犬が唸るような声をあげていました。のしかかった男の横顔は、トーマスさんでした。
 わたしの背中を押すばかりだったおかあさまは、それからブランコにお乗りになりました。首に何重にも縄を巻いて。枝に引っかけて。
 わたしは足元に落ちていたレンガを拾いました。怪我をするので、どけておかなければなりません。つまづかないように。トーマス・ジャスティンさん、もう、臭いを気にする必要はないでしょう?





 日は暮れて、ないだ風が頬をよぎります。お夕食の、美味しそうな匂いがしました。「おかあさま」がスープを作ってくださっています。工場の臭いはもうしません。
 わたしはブランコに座り、太陽が落ちていくのを見ていました。卵を割った黄身の色のように濃く、地平線にぶつかっても潰れません。
 立ち上がって漕ぎました。手に力を込めて、少しでも遠くまで見られるように。
 漕ぐたび、ぎ、ぎ、と音がします。首のちぎれたおかあさまの体は、ブランコの傍に横たえておきました。お顔はわたしの上で、わたしと同じ方角を見ています。
 景色が高くなっていきます。町が見えます。作り直されている途中の工場の煙突も見えます。野を越え、戦闘機の編隊を突き抜け、海へ出ました。海の青は空の水色に変わり、光あふれるその上へと体が浮かんでいきました。
 帽子を被ったおとうさまが丘の道を歩いてくるのを見ました。手にはリボンをかけた箱と花束を持っています。
 わたしは両手を広げ、光の中へ身を投げました。
 



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あとがき

 自分の中にあるものをアウトプットするのが創作ではありますが、それは時として非常にネガーだったりします。アウトプットといえど、その前には様々なものがインプット(吸収)されているはずで、言葉にするのがしんどい時や、言葉にならない時さえあります。このお話については二か月ほどもやもやとしたものを溜めに溜め、途中すっぱり見もしなくなり、二日ほどでラストを書き上げました。
 人は、怖いものには理由がないと言います。一昔前ブームを巻き起こしたジャパニーズホラー、最近でもヒットを飛ばすショックングスリラーの数々。…でも本当に?  余談ですが、怪談の類も時代とともに設定が変わっているのだとか。だとすればやはり、恐ろしいものを恐ろしいと感じ、反応するそれには、理由があるのかもしれません。あえて手を触れない、見たくない、わたしは知らないと首を振りたくなる何かが。