花降る春に帰りては



 はらり、とまた落ちた。
杯に受けたひとひらは、桃のそれより白んでいる。手を廻してやると、女童が肩を震わすように中で遊んだ。
昨晩の雨は柔らかだった。針刺す痛さも、愚図とした温さもない。
花の夜露を徳利に採り、幹の袂に寝かしつける事五年もすれば、良い具合に甘みが出るだろう。
くい、と一口にあおった矢先、銀の髪が「おうい」と目の前で揺らいだ。
「今年の出来映えはどう」
河岸に垂れた蜘蛛の糸を、何本も束ねたらこの様になるだろうか。むろん菩薩に焦がれ掴んだとしても、「痛い」と言って巻き付かれ、手の骨を折るだけなのだろうが。
都人ならこぞって欲しがるだろう髪を無造作に手の甲で払い避けると、くつくつ笑う声を上に聞いた。枝に足をかけて逆さで宙ぶらりになっている。
「茨城も飲みたいか」
「うん、飲みたい。去年は、君、一人で全部飲んじゃったもの」
「あれは失敗したからな。―発酵に濁りが交じった」
「桜(さくらの)、」
毛先揺らして弧を描き、ついと降り立つ足指には白の鼻緒。草履が土に触れたのも音とならぬしなやかさにて、片目瞳は猫のごとく、光彩細く銀に瞬き、左は孤高の望月を填めたよう。桜の肩に掛かった長い髪を一房手に取って、自分の目線より高く陽に透かし、「またか」、と嘆息ついて手を離した。
「色が濃くなってる。今度は誰が埋めてった」
「雑戸(ざっこ)の古翁。孫娘の戻りを待ちたいのだそうだ」
「っは!」
根元の土が一部こんもり山となっている上に、茨城はどかりと座り込んだ。手の平で袂を叩き、金の瞳をますます細くする。にゃあ、と今にも啼きそうだ。涼しい顔で酒々に口付ける桜を横に、面白くもない顔で膝に頬杖をつく。
(仏を尻の下にするとは何と罰当たりな!)とは、世俗世間の世迷い言。死は死。少なくとも己が身はそうである。
「いい出来だ」
「そんな事したところで生き返りはせん、ってこの際教えてやろうか」
「俺達が言ったところで、生気をすすったと追い立てられるのが関の山さ」
「赤い花が咲けば分かるのに?」
茨城は大路小路を洛外より眺め、享楽と災事を背に建ちそびえる羅城門に、足の裏を向けた。
―餓鬼どもの勝手な使い草にされてたまるかっての。
そうぶつくさ言うなり仰向けに横たわり、大涙の如く咲き誇る桜木を見た。

一体、一体、誰が始めに嘘偽りを。
死人を此の木の根本に埋めれば蘇るなど。

木に病を持ち込んで、益だけ受けようとするその性が、茨城にはどうしても許し難い。全く、遺体を他の場所に埋め変える桜の身にもなれ。御利益信仰だかなんだか知らないが、体一つ消えて、『あの子は生き返ったんだ!』って脳天気に喜べるってのにも、ほとほと呆れがさす。
「今度は手伝わないからね」
「酒呑に頼むよ」
「酒呑にもやらせない」
「じゃぁ俺一人」
桜の声には罅一つない。とくとく、と杯につぐ小さな音だけ。木が吸うべき緋の色を、桜(さくらの)が全部ひきとっているというのに。
「…」
はぁと溜息ついた茨城が、「僕にも」と桜の懐に転がるお猪口に手を伸ばした。ふて寝、ならぬふて酒である。桜がそれに注いでやる。
「そのうち真っ赤になるよ、髪」
「なら酒呑と同じになるな」
「何言って…、あ、」
道遠く、息を切って走り来る狩衣姿。酒呑だ。何やら嬉しそうな顔をしている。小脇に笹に包んでいるのは、餅の類だろうか。
「おおーい!!まだ、全部飲んでないだろうなぁー」
どうやら先方も、酒飲みたさのようである。何しろ十二あるうちのひと月にしかお目にかかれない、作り方も桜(さくらの)しか知らない秘伝の秘伝。赤鬼が下舐めずりしてやって来る気持ちは十二分に理解出来る。普段から血色の良い頬が、一段と染まっているのも見間違いではないだろう。
「あ!茨城お前!!」
「お先に味見させてもらったよ」
口を拭い、ふんと鼻を鳴らした茨城は、木の枝に飛び移った。猛進していた酒呑が前のめりに体を止め、天を鼻で突く。匂い嗅ぐように目を細める様は、茨城とは対で子犬のようだ。手を一杯に広げて枝垂れる房を胸に抱き、琥珀色の瞳を元気良く輝かせている。桜は仄かに笑い返し、徳利を抱え直した。

*

 笹の葉を開き一番に団子を頬張った隣村の鬼は、喉に詰まらしたのをむぐぐと胸叩き、一つ返事で了承した。
「いいぜ、手伝う」
「酒呑、」
姿なき声が童子を咎めた。よほど憎らしいのか、忌々しさが声に満ちている。
「連中は腐った体を一度拝むべきなんだ。夢見るのも大概にしろよ、とね」
「うへぇ、やめろよ茨城ぃ〜。食の真っ最中だぜ」
「大体ねぇ、…君、食べ過ぎ!」
土産に持ってきたのを自分で食べ尽くす勢いでどうするのだ。包みの中身は、串を刺した三食団子とヨモギ饅頭、黒蜜糖をかけた白餅だったが、ぱくぱく、ぱくぱく、酒呑の手は止まらない。欲しかったらお前も下に下りて来いよと誘いはするが、それまで残っているのかどうか。酒飲みの桜はヨモギを一つ頂戴し、静かに一囓りしている。隣村の土と風は良好のようだ。程良い弾力を歯に楽しめる。
ここか、と先ほど茨城が遠慮なく腰を下ろして扁平になった土を、酒呑は撫でた。
「東雲(しののめ)んとこの娘だな、葬儀をしてたのを昨日見た」
「頼む」
「それはいいけどさ、…月が」
何やら空に目を彷徨わせた酒呑の頭に、髪の房が垂直落下してきた。毬でもつくみたいに、パシンパシン、酒呑にとっては鞭打たれてるのと同じだ。いってぇなお前と怒鳴りつけてやったら宙でいったん止まったが、
パシン!
「痛ぇっ!」
顔に当たって涙目になる。
「茨城」
諫める声にも呼ばれた方は応えない。すとんと袖をはためかせ、くるり二人を向いたかと思うと牙を見せ、
「あんな奴等放っておきゃいいんだ!!」
目に手を宛てた怪我人を放って、あっと言う間に走っていった。
桜が杯の酒に浸した指で瞼をなぞってやると、赤みが不思議に退いていく。「薬効まであるなんて便利だな」、からからと笑われて薄紅の髪の子は眉間を中に寄らせたが、不快を感じたからではない。「お前はもう少し痛みに敏感になれ」、桜が返すと酒呑はにやりと口端を上げ、押さた方とは反対の目を真上に上げた。
「―綺麗だなぁ。本当に綺麗だ」
万人に褒めちぎられ心和ます大木の、それより下に座るものはそう言って目を細めた。



*



 死人を土深く安息へと眠らせるのが人ならば、掘り返すは鬼の所行。
老木を囲い、酔いに足をもつらせ、踊り、唄い、男が膝をあらわに女を追う様を、高い高い頂上から眺めた。彼の者達は死体に用はない。純然に花見に興じているだけだ。
尤も、墓に葬られたのが見せかけだけであって、こちらに送されたことなど知る由もない。縁者は喧噪に耳を澄ますことはあろうとも、弔いにひっそり引き籠もり戸を閉めて、今夜は表に出ないはず。
風に花が揺れるたび、ひとひら、また、ひとひらと離れていくのを見守りながら、桜は髪の先をそよがせた。おそらくはもう何十編も聞いた賛辞に、顔色一つ変えることもなく。

満足した心地の京人が、頬を上気させて帰っていく。ある者は律儀に、深々と頭を下げて拝んでいった。

ご神木さま、ありがとう。来年もどうぞ、大輪の花を咲かせてください―。


「―」
時満ちた。酒呑の気配は感じない。
ひっそりと静まった夜。どっしりと土に根を張るこの木こそが、立ちつくしたまま一歩も動けぬ死人に等しい。ひらり、はらりと悲しげに、花散れば人の興味は失せると知りながら、それでも人に恋焦がれ、誘わずにはおられない。人が木を巫女の様相と讃えるのとは逆に、桜が連想するのは、路地の片隅にて艶めかしく手の平裏返す"中媒"の下女である。
 咳一つするのも憚れるここより後、山の端より光現れるまでが異形の領分。音という音を喰いおさめ眠りこけている闇の腹を、蹴らぬように木から舞い降りた。
酒呑のことだ。また姫君の邸に忍び込んでいるか、ほろ酔いで目が覚めないでいるか。約束をとりつけた今までにも幾度か反故はあった。しかし桜は別段動じない。縋り付くは本意にあらず。その謂われもないのも知っている。
土を撫で、埋められた辺りに指で孤を描くと、むずむずと表面揺れ動いた土塊が、孤より外側に花弁もろとも攫って退いた。木板をいくつか合わせた蓋に木釘は打たれていない。
しゃがみこみ手を掛けた、その時、丁夜の腸(はらわた)が無法に引き裂かれた。
「…っ」
押し込め損ねた声を喉裏で潰した老翁が、月光と陰に顔を半分にして立ちすくんでいた。いささか呆然とした表情で、双眸を頭上の月のように丸く見開き、こめかみの白髪をそよと波立たせながら、しかし背を向けて遁走せず。
翁が見たのは、薄紅の髪、衣袖よりのぞいた青白い肌。どれだけの静謐を讃えていようとも、この世に在らざるべき血色の眼。
木が、花が、騒ぎ出す。ゆらり立ち上がった人に非ずを前に、思わず一足退いたが最後、気管を出入りする流れが鼻詰まる。抉りだせば宝玉と、身の程を知らない山賊風情が一夜に骸の山を築いたという、あの両眼がそうなのか―。
翁は呪詛混じりに唾吐いた。

「…シノノメか」
「―!」
「諦めよ」
一瞬にして青ざめた翁は、堰を切って声を荒げた。
「―頼子は!まだ中か?息は!?」
「ひきとるのを見たであろう、主が枕元にて」
零度の音を凛と響かせる、桜の声に情は欠片もない。「そんなはずは」と、翁は苦しげに呻いた。
「ちゃんと日にちは合わせた。旅路の護符も棺には入れなんだ!なんで起きあがらんっ」
頼子、頼子、儂だ、爺ぞ。烏帽子を胸に咽び泣く。何度呼びかけようと、桶を内から押す手はない。胸引き裂かれながら、翁はそれでも去ろうとしない。目に入れても痛くない程に可愛がった孫娘を一心に想い、両の手の平を顔に宛い嗚咽する。
桜は無表情に身を翻し、爪を差し入れ蓋を開いた。
「何、を」
翁はようやっと面を上げた。
深く差し入れた桜の手に抱え上げられた身体は土気を帯び、紫の唇を固く閉じていた。その手足はぴくりとも動かない。肩下で切り揃った黒髪だけが唯一、風を受けた短冊のように揺らめいた。
「頼子―儂の頼子に何をする」
「主のあずかり知らぬ場所へ連れて行く」
「返せっ」
翁は走り出て掴みかかったが、空しく宙を掻くのみ。はっと後ろを振り返れば、膝を胸に当て硬直した童の抜け殻を抱いた物の怪が、炎の色合いと釣り合わぬ寒々しい眼差しで、老いた男を見つめていた。

―血も涙もない。
―浄土を追放されたお前には分からんだろう。
―娘を失いその君だけを、生き甲斐にしてきた儂の絶望など。

「知るはずもない」
桜が放った一言が、翁の心部を突き刺した。涙伝うその面こそ鬼の形相。懐より抜き出した小刀を掲げ、咆哮して突進するのは軽々とかわしたが、拍子、童の骸が、老人とは思えぬ力で奪い取られた。桜の眼が遙か頭上を捉えて唇を噛む。望月が赤い。翁はとうに死者の名を呼んでいる。正面立つ木は花散らし、動けぬならばこちらにと、持てる全てをもって生者を誘う。解きがたい手を根より生やし、餌として。

刹那の無音。視界が花吹雪で閉じられた。
隔てられた現の向こう。擦り切れて、黴をまぶした景色の中に、黒髪の男児と一人の女が手を鳴らし遊んでいる。其処にもこの木は立っていた。
(鬼さんこちら、こちらだよ。)
目を閉じて優しい声を追っていた。髪の色も眼の色も、まだ人間だった・・・・・

「じぃじ」
空気にそぐわぬ声が鳴った。
黒と白と土の象牙色に世界が一変し、肩で息をした翁がその中心に居た。女童は目を開いている。双眸それ自体が錆びた沼に沈みこんでいる様は、枝垂桜に宿ったあの鬼とまるで同じ。咽び泣く翁は、だが異形と化した部位になど目もくれない。病に奪われた愛し子が、再びこの世に還ってきた喜びに、ただただ強く抱擁を繰り返す。
指を一本、また一本解きほぐし、女童は育ての親の肩に手をまわした。
「より、」
「…お腹が空いたよ」
形良い額を、甘えるように頬に寄せ―、
ズスッ
翁の腕が力を失い垂れると同時、開放され自由になった足が柔らかく地面に降り立つ。濡れた口元を拭おうともせず、翁がどうして倒れたのか、それも分からないという顔だった。
「じーじ…?」
動脈から血泡を吹かせ、流れる液で着物を汚した翁は応えない。女童はそろりとその身体に膝を寄せ、背後の陰を小さく振り返った。竹枝のように長く鋭い爪が目の前にあった。前髪を真横に切り揃えたあどけない顔で桜の前身を上にたどり、煉獄の炎に立つ我が身を双眸に見る。そうしてやっと、悟った風に口閉じた。
「…」
もう一度、枯れ枝のように横たわった体に身を反転させたが、すぐに食べ散らかしはしなかった。
息の浅くなった翁の頭を膝に乗せ、あやすように肩に手の平打って、小さく小さく歌い出す―子守唄。
目覚めた空魂(からたま)は、時経つに連れ、燃え立つような激痛に全身を貪られる。子供とて例外ではなく、いずれは気が狂うほどの渇きに喉を掻きむしるだろう。飢えと苦痛に耐えられず、血肉を求め襲いかかる対象に、選り分けなど存在しない。
 ヨリコ、と朦朧な意識で呼ぶ翁の声に、女童は人であった時さながらに幼く微笑んだ。
「じーじが唄ってくれてたのよ。母様も父様もいなかったから」
顎を滴り落ちた血の雫が、童の着ている経帷子の衿に染みこんで広がった。悲も哀も押し流せぬ緋の眼から、絞り落としたがごとく、何滴も、幾度となく。
片手で髪を払い分け晒した白首が、小さき帰り人の選ぶ先。唄い続け、ふと思い出したのを、女童子は嬉しそうに爺の耳朶に囁いた。
"―ご本を読んでくれてありがとう。"

桜が爪を振り下ろすより一寸早く、太刀の閃きが夜風を斬った。







 額に冷たい物が触れたのを感じて瞼を上げた。
花びらを一枚指につまんだ童子が、銀と金の光を桜の顔にすっと下ろしている。
「大分、散ったね」
身を起こした桜の懐へ指を離し、茨城は幹に背を預けた。木の根本は、もう平らに整っていた。
「今度は何処に埋めたの」
「ずっと遠い、山の中」
徳利の栓抜いてお猪口に注ぐ桜を横目に、茨城は肩をすくめた。
「毎日毎日、よく飲むねぇ。そりゃ、君の作った酒はとても美味しいけれど」
「俺には水のようなものだ」
「さっくらのーーー!!いっばらぎーーー!!」
誰の声だか考えるまでもない。うるさいのがまた来たと、茨城は辟易した顔で枝に飛び 移ろうとしたのだが、恐るべき速さで駆けてきた酒呑に、挿貫の裾紐を踏まれる方が先だった。
びたん!
勢いよく地面に鼻打った茨城の頭に、何かを抱えているふうの腕が放たれた。
ふわり、ゆらり、雪ではない。軽いのは同じだが、右へ左へ時間をかけ、落ちて点を成す。
「村の木のを集めてきた。どうだ、桜のに負けず劣らず綺麗だろう」
がっはっはっと豪勢に笑う声に、茨城は花弁にまみれた頭を無言でもたげ、瞳孔をギンと細めて睨みつけた。重そうな脇差してるくせに、何でそんな速いんだ。
「君ねぇ、目が駄目だからって邪魔しなかったろうねっ!」
「おぉ怖。何だ、気にしてたのか。桜に治してもらったから平気の平気。野暮用でちょくら遅れたけど、ばっちりだったぜ」
次はお前が行けばと酒呑が促すと、茨城は「行かないよ!」と、そっぽを向いた。

枝先には葉の緑が宿り、閉じた木の芽が黙している。
花びらを掬って投げつけ始めた二人から桜が目を離すと、大門の下に何時からか、首に布を巻いた老叟が立っていた。盛りを過ぎた神木をぼうっと眺めているが、それ以上こちらに来る様子はない。杯を手に座る童子につと視線を下ろすと、両の耳に手をかざして二言三言呟いた後、身を翻して去っていった。
ん、と鼻をひくつかせた茨城が香りを辿って桜の目線と平行した隙を、酒呑が狙う。
「待った。ねぇ今、お酒と桜の匂いが―」
「桜(さくらの)がここに居るからな」
「…そうなの?」
合点のいかない顔付きをしている茨城の頭に、そぉれと花片が降り掛かる。傍観者を気取る桜の狩衣も、薄めに薄めた桃色で埋まる。
「―。」
酒の手を休め袂の土を指叩いた。残響する葉音。


―よい子だ、よい子。眠りゃんせ。


溶けない淡雪が鬼の子達を包んで舞った。




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あとがき
気付いている風の酒呑と、気付いてない茨城(笑)
鬼の子三人は、桜はもちろん、外見は全くのフィクションです。桜(さくらの)についてはまだ書きたいことがあるのですが、平安時代は色々分からぬ言葉だらけで謎です…。
※雑戸…良民の下層身分。中媒…風俗斡旋的仲人。だと思う)
それでは、ありがとうございました。