竜の花嫁
しゃららん しゃららん
輪に交ざって歌えや
しゃららん しゃららん
真中のあの子は誰ぞ
しゃららん しゃららん…
火が躍っている。天の川に向かって、ちりちりと。温い風に顔を撫でられながら、子供は自分と同じ年頃の者達が走っていくのを窓から眺めていた。夜道を恐れもなく駆けていく彼等は、皆同じものを手にしている。
自分の傍にも横たえてあるそれに、子供は触れた。ちょっとばかりぶつけたらやぶれてしまうから、とても慎重になってしまう。胸の前にかざすと、囲炉裏で隔てた向こう側の壁に、影絵が二つ浮かび上がった。竜は後ろ足で地を蹴り上げる姿勢をとっており、翼を添えた背中をきつく反らしている。人型の方はその巨体の前にひれ伏す格好で、深く頭を垂れている。竹棒を捩り揺らすと、二つの陰は部屋の隅に溶けたり壁にまた浮かび上がったりした。
ドン!
鮮やかな色合いが、紺の空に花咲いた。赤に緑、金に青。高く打ち上げられた火は、先刻見ていたものとは別の類のものだ。
「おや、始まったのかい」
明るい光に吸い寄せられて、子供の母が窓に近づいてきた。起きたらいけないと言う子供の頭を撫でて、母は優しく言った。
「行っておいで。私のことを気にすることはない」
子供は竹棒を持った手を下ろして、首を振った。
「いいんだ、嫌な思いをするだけだもの」
「嫌な思いって、お前に悪さするのがいるのかい?」
「違うよ、そんなこと誰もしやしない…でもね」
子供は母の懐に身を寄せて、風に乗って漂ってくる焦げた匂いから少しでも逃れようと、窓から顔を背けた。火の粉がはじける音を聞くと、自分の背中も焼かれてしまいそうで怖かった。病床で痩せてしまった母の指は細く、子供の髪を掬っては、ぱらりと落とした。
「竜は−」
途中まで呟いて、子供は言葉を飲み込んだ。僕は今夜少し足が痛むのだと言って、母を床に連れて戻し、細く皺の入った瞼が閉じるまで横にいた。山のふもとから嬌声が上がった。男か女、よそいきを着た少女のものかもしれない。笛吹や錫杖で土を叩く僧への喝采だろうか。
(また行くのかな)
村人の何人かが供え物を手にして出ていくのを、数日前にちょっとだけ目にしていた。母は祭はいいと言うけれど、山に入るのは駄目だと言う。
(竜はとても恐ろしいのだよ)
寝息が膝元で立ち始めてから、子供は薄い布団を母の胸元へ掛けてやった。今夜は暑いから、夜中にきっと外してしまうのだろうけど。
ぴしゃん。ぴしゃん。
僅かな物音に目を開けた。蝋燭はすっかり溶けてしまって、家の中は暗くなっていた。母は寝返りもうたず、すうすうと静かに眠っている。起きあがって、天井から壁づたいに視線を下ろす。ぴしゃん。ぴしゃん。まだ続いている。
出入り口の戸をそっと押して、外に出た。傾いた半月が、小さな顔をぼんやりと照らした。水瓶に浸してあった柄杓が、いつの間にかそれに並んだ桶に立てかけられている。酒をあおって酔った誰かが、冷ましに使ったのかも知れない。裏返った柄杓はまだ濡れており、桶に薄く張った水に滴を落としていた。柄杓を杖ごと桶に入れてしまうと、音は止んだ。櫓から立ち上っていた煙はとうに消えていて、踊りを楽しんだ村人達の姿もない。家に残した母を思って少し立ち止まったあと、子供は夜道を歩き出した。遠吠えしているあれは犬だろうか。狼なら見付かった時に一口でやられてしまうけど、村の中までは入ってこないだろう。祭の場所へ行く道沿いには知り合いの家が点々としているから、いざとなったら逃げ込めばいい。頭上の月が歩く方角についてくるように見えた。
はずれの広場に辿り着くと、炎を抱き込んでいた檜の櫓は炭になっていた。楕円に開いた土地を普段訪れる者はあまりいないが、ここには寺社が一つある。鳥の細工を乗せた石柱を両側に構えた、ちんまりとしたものだ。玉を嘴に挟んだ鳥は、間を通る者に襲いかかりはしなかった。扉は容易に開いた。
しゃららん。
音がした。子供が立ち止まると、音はやんだ。歩き出す。しゃらん。しゃららら。
「…誰ぞ」
砕けた屋根の一部から、弱い光が零れ入っていた。村では見慣れない顔立ちの、唇に紅を塗った女が奥にいた。金糸で牡丹の模様をあしらった絹の着物を着て形良く座っており、長い髪を結いあげた頭に、鈴の付いたかんざしを飾っている。
「子か」
女が問うたので、子供は頷いた。
「夜更けに一人歩きとは、なかなか肝がすわっておるの」
物の怪だろうか。脳に横切った考えを女は見抜いたようだ。
―例え妖であっても、そちをとって喰ったりはせぬ。
女は小さく笑った。
「あなたは、誰」
「さあの…昨日までは知っていた気もするが。そち、名はなんと申す」
「イーイェン」
「ふむ」
女は貝玉が垂れた耳たぶに手を触れて、心地よい名じゃ、と返した。子供は褒められたことを嬉しく思い、生まれて初めて自分の名を誇らしく感じた。
「ここで何をしているの」
床に長く伸びた帯を踏まないように注意して続けた。女は暫く答えなかった。
「…竜を待っておる」
解放された扉の向こうでは、月が散らした病弱な光が灯っている。そのさらに向こうの村の裾に、岩肌をむき出しにした傾斜があるのだが、女の目は子供の腹の脇を通り過ぎて、そちらの方を見ているようだった。しゃらんと、また鳴った。
「昔、ここ一帯で作をなそうと必死になった男がいたそうな。降り積もる灰に強い種を育てようと尽力したが、どんなにやってもうまくいかなんだ。僅かに穂を結んだ小麦を、都の官は根こそぎ税として持ち去っていく。『周囲はあばらを浮かせて死んでいくというのに、我は何も出来ぬ』。男は悲嘆に喉を掻きむしり、奴隷としていつかのたれ死ぬくらいならと、火口に身を落とすつもりで山に登った。そこに竜が現れたのじゃ」
「男を喰ってしまったの」
歩を踏む出そうとした子供を、女は手で制した。
「喰いはせぬ…竜と会った後、男は村に帰り豊作の田畑に喜ぶ人々を目にしたという。それだけの事よ」
すうっと女は息を吸い込み瞼を閉じた。呼吸で胸元に巻いた帯が浅く上下していた。子供はその間に一歩、また一歩と近づき、とうとう女の膝の前に立った。首を傾げて座り込み、覗くようにして女を眺める。じっと集中しなければ、灯り一つない周囲に紛れて消えてしまいそうだった。身体をすっかり着飾っている様子のその姿は、棒にくくりつけられていた形の一つを思い出させた。
(陰道具を持ってくればよかったな)
眉の上で真横に切り揃えられている髪に触れようとしたのは全くの無意識だったが、指先が届くより速い動作で陰が舞った。小さく悲鳴を上げた子供の額に、冷たい物があてられた。
「姿形が大事かえ?」
「―」
掌が顔面を覆っている。狭く開いた指の間に、女の瞳が映った。水掻きより下は見ることを遮られ、艶やかに塗った縁に飾られた、黒水晶の目だけが言葉を発す。
「異界の者が喰わなくとも、人がそちを喰うかも知れぬぞ。男を火口にやった官のように」
「―」
「あるいは竜と約束をした男のように」
手が離れた。
「全ては喰らいあうておるよ」
行けと、女は言った。着物の長い裾を引きずって扉に歩き、子供に出るように促した。内側から押さえられて、扉の隙間が狭くなっていく。中に届いていた月光が切り取られる寸前、女が薄く笑ったように思えた。鈴の音はもう聞こえない。
「―エン、イーイェン!」
遠くなった視界が、低い声に引き戻された。青年は列の動きに取り残されて立ちつくしている。背に槍を具した男に肩を揺さぶられ、我返った表情で瞬きを繰り返した。
「どうしたんだ、夢でも見ていたか」
返事をしない青年の背中を叩いて、男は先頭を眺めるようにして首を伸ばした。
「しっかりしろよ。頂上まで上がったら、仕事を始めなければならんのだから」
俺は先に行くぞと言って、男は体を翻した。その背よりずっと先の山頂に立ちこめる雲の塊を見上げて、青年は黙したまま、再び進路に歩を入れた。後ろにはまだ数人が続いており、並んで話をしているのが聞こえる。
今年は隣村の一人娘じゃと。ととは絶対に嫌じゃと言っておる。
大人しく差し上げればよいものを、儂らまで駆り出されてはかなわない。
全くじゃ―しかし、あれがいなくなれば都合よいこともある。前の祭に選ばれた娘は、息を呑むほどきれいな女子じゃった。巫女でなかったら攫ってしまいたくなるほど、実に美しい顔立ちをしておった。
ほう、それはそれは。
どこぞの長者の娘じゃったが、結納を勝手に断ったのをととが激怒して、自ら差し出したのだそうな。そいだもんで、その年はクジをひかなんで済んだのよ。
今年もそうだと楽じゃったのだが。
隣村の連中は、法螺を聞きながら贄を送るのはもう我慢ならんと。伝えがどうであろうが、餌にされているのはあきらかではないかとな。
ぽつ。
青年の頬を何かが打った。
「雨だ、急げ」
草木のない地面は、濡れると足を滑らしてしまう。腕で拭って、青年は足を上げる速度を早めた。
前方で誰かが声を荒げた。
―ここだ!いるぞ!
雷鳴の中を、斧や弓を持った人間が一斉に突き進んでいく。地を震わすような唸りが、斜面の途中にある青年の所まで響いていた。
およそ道とは言い難い岩肌を登りきった時、青年はそこに巨大な生き物がいるのを見た。
「まず背中じゃ、翼を切れ!」
放たれた弓が深々と刺さると、皮膚は赤黒い液を噴き出した。苦痛の音を歯の間から吐き出し、長い尾を人の群れ目がけて振り落とす。村人は四方に逃げ回りながら、隙を見て鱗に力一杯斧を叩き込んだ。その度に粘液質の血が飛び散った。
青年は剣を手にして切る。もうどれだけ動き回ったか分からない。首の付け根で髪をくくっていた紐が、いつの間にかほどけてなくなっていた。心臓が燃えるように熱く、息を整えるために数歩遠ざかった。
村人の一人が岩石につまずき、地面に尻をついた衝撃で、その手元から武器が飛ぶのが見えた。山の覇者を目の前にして逃げようと試みてはいるが、膝が立たずにいる様子だった。動きを鈍くした残り物に対して、容赦もなく鋭い爪が振り下ろされた。青年は咄嗟に走り出た。固く握りしめた剣は爪を押さえたが、痺れるような感覚が両手を襲った。青年の背後では村人が頭を抱えている。一匹の赤い物。灼熱の炎のような色をした目と躰。
しゃらん。
青年は動きを止めた。手から腕、脳へと、全体に麻痺が乗り移っていく。空耳、この音は。
「何をしておるっ!」
鋤を手にした男が青年を払い除けた。縮こまっていた村人が、時を得て這い逃げる。暗雲から投じられた轟きが、一瞬、青年の耳から聴力を奪った。全ての事柄が何処か途方もなく遠い場所で起きているような錯覚。その中で、ただ一つ鳴る物があった。
しゃらん。
何事かを喚いて、男は鋤を高く掲げた。青年は引き千切れんばかりに腕を伸ばした。待ってくれと、血をこびり付かせた口はそう動いていた。
(姿形が大事かえ?)
―竜は。
鋤が振り下ろされた。
―昔、火口に身を投じようとした男がいた。溶岩の海より現れし竜は、男を踏みとどまらせ、村々に灰を降らさぬ代わりに約束させた。十年に一度、娘を差し出せ。娘は我となり、界空を駆けるであろう。戯れに何をと思いながら、男は承知した。されど里に降りた男を迎えたのは、胸に麦を抱え走り寄る妻だった。頬を上気させた女童が、妻の膝の後ろから顔を出して笑った。
初めに竜に差し出したのは、男自身の子供であった。
「…とと、どうしたの。だんまりして」
黒々とした目が見上げている。
「ちゃんと最後まで話して。途中で切られてしまったら、歩いている最中ずっと考えてしまう」
長いこと剃っていない髭を引っ張られて、男は降参の手を挙げた。納得しない目つきで、子はねだる。
「それで、竜は死んでしまったの?」
男は水筒の水で喉を潤してから、かぶりを振った。
「このお話には続きがあってね」
「うん、何々」
「竜が心臓を突かれるというその時に、岩穴から飛び出してきた者がおったのだよ。金の鈴を頭につけた女じゃった。埃をかぶり着ている物も汚れていたが、不思議に竜は女の諫めに従い、火の袂に返っていった。女は青年と目を合わせ、下駄が小さく地に打つような、からりころりとした声で言った。『そち、名はなんと申す』とな。青年は涙を流して言った。イーイェン、私の名はイーイェン。女は微笑んだ」
そちの名は、心地よい。
「娘を二度と差し出さない代わりに、青年は女と二人で山に残った。そうして竜と共に、死ぬまで一緒に暮らしたそうな」
「ふうん、その人は幸せだったのかな」
「ああ、多分ね」
もう行こうと言って、男は土手の縁から立ち上がった。はあいと返事した少女は、手に竹竿を持っている。竜と巫女の形をした色紙が、紐の先で風に揺れた。
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あとがき
文字に出している物は細切れだったり半端だったりなのですが、やっと一つ書けました。短文も長文も苦手に変わりなく、所々反省しまくりです。お付き合い下さりありがとうございました。