らじょうの櫛
―成程な、死人(しびと)の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ―
『羅生門 芥川龍之介』
腐臭がする。
神木より三里を離れた山裾で、くんと匂いを嗅いだ。
見下ろす原は空風に吹かれ、乾ききった大地に折れた野草を寝そべらせている。荒涼とした、にべもない景色。
放火強盗子殺し人売りと、洛中はすさみ果てているとな。生きるには食い物がいる。食う為には銭がいる。もっと、もっと、足りぬ、足りぬ。萎びた青菜の一本、これでは買えぬ。家畜を売れ、子を売れ、妻を売れ。米びつを掻いた爪をしゃぶって腹をこなせ。着物はないか、売れる物を隠してないか。爛々と目を異様に光らせた追い剥ぎどもが、娘見つけて飛び掛かり、絹引き裂かれる声を封じてこれを辱める。往路には脱糞と蛆、肋骨に薄皮を被せ息も絶え絶えの、流す涙も惜しいとばかり閉じた瞼に蠅が集る。
御所では御布施を払って坊主を呼び寄せ、天災飢饉天変地異から何卒お救い下さいますよう、やんごとなき高位の方々が袖を濡らしてよよと泣きつくのだとな。遠方はるばる来た候、酒に用なし、唐国の珍しき調度があれば貰い受ける。雫も落ちぬ空に「いざいざ」と錫杖ふりかざし、嘆願乞いて明朝の恵を約束すれば、翌朝坊主の寝床はもぬけの殻と化したとな。
妻子を売ったその銭で、あとどれほど生きようか。
調度を売ったその銭で、あとどれほど生きようか。
銭あっても腹満たなくば、路傍の石も同じこと…。
「虫酸が走る」
茨城(いばらぎ)は花の蜜を吸った口を拭った。
桜(さくらの)も、薄汚く荒れた都を見ているのだろう。野を流離う己と違い、あれは住みかを離れられない。神木と崇めたてられ、もてはやされてきた木が、謂われなき罪で焼き払われていなければ良いが。
昨日言った言葉を今日裏返すのが奴等の手よ。目に映る事物に自分を合わせ、意にそぐわねば平気で裏切る。惨たらしい地獄絵図を眼前に収めながらにして、口の端が吊り上がる思いがした。
「内裏の内にいる奴等は門を全部閉めてしまって、無理にこじ開けようとするのを片っ端から槍で刺し殺しているんだと」
七日以前、桜にそう言った茨城は、五条付近の小路が燃えるのを見ていた。
「その、閉じているはずの内裏から、どうやって攫ってこられるのだろうな」
え、と炎から目を逸らすと、自分の背一つ分高い枝に、赤い髪が垂れ下がっている。
「よぉ二人とも、元気にしていたか?」
火中を逃げ回っている人間どもが聞いたら、ひんしゅくどころの話じゃない。空気を読む気がないにも程がある赤毛の鬼が、桔梗の花模様が咲き乱れた衣を肩にして座っていた。
「お前、それ、どうした」
世は品不足ではなかったのか。売る物があらば我が身どころか他者の骨までも。俗世に浸かりきった眷属ならばともかく、何故、お前がそんな奢侈な物を持っている。仏心を出したのでは決してない怒りで、突き付けた茨城の白い指がぶるぶると震えた。
「ん?これ?」
それ以外に何がある。
酒呑はひらひら袖を振って「いいだろう!」と胸を張る。いいも何も、女物だろうがそれ。
「史生の末娘がさ、くれたんだ。お礼にって」
「お礼?」
「昨夜中に逃げなければ、父の手で暴君の山男んとこへ売り飛ばされてたって。いくらだって聞いたら、安いの何の。笑っちまわぁ」
前言復唱。世は品不足。上書きして、世も末だ。人のやることに一切興味はないが、この物好きな鬼は、どうしたって不興を買いたがる。桔梗模様は紫に金糸が縫い込まれており、こちらは弁舌によっては高値がついたかも知れぬのに、駄賃の元を着物ごとかっさられては、噛む臍もない。
「それで逃がしたのか」
桜がいつもと同じ、抑揚のない声で訊いた。
「ていうかー…、是が非にでもって言うから、担いで山をひい、ふう、越えてみたら、枯れ藪住まいの爺さん夫婦に手を合わせられて、欲しいみたいだったからあげてきた」
あげてきたって、お前。茨城がガリと歯を鳴らすと、酒呑は「ん?」とまるで分かっていない顔をした。
酒呑の場合、人間好きというよりただの女好きのような気がするが、その割に、やることがどっちつかずで、茨城を不必要に苛立たせる。鬼の同胞と組するのでありながら、人間(殆ど女)に甘く、しかし手放す時も躊躇わない。あべこべな態度と行動に、何度振り回されてきたことか。
ちらと見下ろした桜は桜で、淡々として、彼しか作り方の知らない酒を、ちびりちびり飲んでいた。紅の眼は静かに都へ向けられている。
阿鼻叫喚を織り交ぜた、低いような、高いような声が、うねるような火とともに上がった。平安とはどんな冗談だ。
木の正面に建つ羅城門は度重なる倒壊の末に捨て置かれた結果、おどろおどろしい様相を醸している。朽ちた屋根には穴が空き、噂に聞いた話によると、日なが増え続ける死体の処置に困った役人どもが、あろうことか楼閣へ投げ入れていくといった所業が横行しているという。曲がりなりにも御所に通ず正門に対し何たる暴挙、とは誰も言わぬし聞かない。
火の粉が舞い、声が幾重にも重なり、叫ぶ。童か赤(あか)か、孫か甥か年寄りか。そんな事はどうでもいい。全て燃えてしまえばいいのだ。比較、優越、排除によってしか、己を保持出来ぬ虚弱な生き物など―。
「そういやさあ」
枝を下りてきた酒呑が茨城にぐいと迫った。にやにやと気持ちの悪い笑みまで浮かべ、茨城が背を反らせるほど顔を近づけてくる。
「な、なんだお前、離れろ、よ!」
思わず手の平で押し返したら、頬を押し潰された不細工な顔がもごもご喋った。
「お前、近頃出るって噂だぜ?」
「はあ?」
出るも何も、自分達は鬼であって、実体のない朧連中とは種が異なる。それに、まだ死んでない。言い返したら酒呑は腹を抱えて笑い出し、見ると、下にいる桜まで肩を震わせている。
「アッハハ…腹いてぇ…いや、違くて。ほら、あれ」
笑いで小刻みに揺れている指で、酒呑は京の方角を指した。そこにあるのは―
「あのオンボロがどうかしたの」
「この間通ったんだけどさー、いやもう凄いのなんの。そこら中に死体があるわあるわで、それが階段の上にまで続いてんだぜ?」
「そんなに非道いのか」
桜の声に酒呑がうんうん、身振り手振りを交えて話し出した。
「火葬場が飽和しちまってんだって。だけど、焼いてもらえるならまだいい。お陀仏してからも身ぐるみ剥がされ、野晒しってのは、俺はこの時ほど自分が鬼で良かったと思ったことはないね。で、本題」
うーらーめーしーやーと両の手を垂らし、酒呑は声音を低くした。
「…あるばーんのーこと〜〜。羅城門二階に、ちらちらと小さな灯りが見えるではありませんか。不思議なことだと思ったお役人が、そろりそろり、登ってみると…」
「みると…?」
嫌な汗が、茨城の背中を伝う。怖くない、断じて怖くない。ごくりと生唾飲み込み、次の台詞を待つ。
「そこには…」
「…そこには…?」
酒呑の蜜色の瞳が、もう鼻先にまで近づいて、ゆらり狂った鬼火を灯す。黒蜜を混ぜ返した瓶底のような、直視してはならない色。女を拐かす時もこうなんだろうかと脳裏に拒絶の糸を張った矢先、ぺしりと頭を叩かれた。
「あとはご想像のままに」
「…はあっ…?」
「さっくらのー。俺も飲みたいー」
赤髪の鬼はさっさと下りていって、桜の懐から酒をかっさらう。ちょっと待て、要件は最後まで言えと怒鳴りつけると、さあどうだろう俺も忘れたよと、一昨日のことのように。
何だか頭が痛くなってきて、渦中のそれに気を逸らせば、どこの下人か、着物と言うより布を体に巻いた、という風な男が、門の下に立っている。戯れる鬼子どもが見えているのか、吹きさらしの下野に無常を馳せているのか、濃い隈をこしらえた顔に、これといって表情はない。男はただ網に絡め取られた魚の目をして、そのうち去っていった。
…しとしとしと。
野を走る茨城の髪に、一向に晴れない長雨が降り掛かった。災事にしてみれば恵みの雨だ。しかし、だからどうだと言うのだろう。肌に染みこんだ血の匂いまで、綺麗に流れてくれはしまい。
着物がぺったり素肌に張り付き、首筋から胸に伝う水が気持ち悪い。
「さくらの…?」
辿り着いた木の袂に、どうしてか桜はいなかった。枝の上にもいない。土産に木蓮の花をやろうと、切り取ったのを懐から取り出し、土に刺した。桜が摂るのは、あの手製の神酒だけだから、自分のように狩に出たのではないだろう。少し待っていれば戻ってくるかもしれないが、桜がいなければ、大木とて紙を貼らない傘。雨止みを待つには少々不具合が生ずる。
「… …あ…」
木に体を寄せた時だった。
羅城門上階に、爪の先ほどの、灯が。
まさか。
咄嗟に木を見上げた。酒呑がくすくす笑っている気がしたからだ。何だってあんな話をしたのか。したならしたで最後まで話せばいいものを、忘れたとは何事か。
思い出したら、段々不快になってきた。
―ええい、糞。
怖くない。断じて怖いことなどあるものか。
茨城は泥を踏みにじった。
死んだらどうなるのか、死んだことのない茨城には分からない。棘を掻き分ければ、体を痛めつけられない陽の下へ出られると思っていた。剃刀のように鋭利な葉。薄に似ていたそれを、十の指を血だらけにして、ぼとり落ちる寸前まで掻いて拓いた。子供と大人が、何人かで輪を作っている。楽しげな童歌、手には石。嘲りの声が天に木霊する。輪の中央に何かを見て、茨城の視界は一色に爆ぜた。
焦点が合わさり、今だ空が青いことに気付いた頃に、歌は失せ、あたりは静かになっていた。熟れすぎて割けた柘榴のような塊が幾つも倒れていた。血肉の赤。臓物の白。それは茨城に何の意味ももたらさなかった。分かるのは自分の頭に触れてくれたあの指が、もうないのだということ。暖かと無知に信じ切っていた陽の下の、どこにも見つけられないということだけだった。
茨城は野から野を渡り歩いて暮らした。夜目に効きすぎる右目の金光は、日長照り付ける太陽に滅法弱く、空に在って無きが如し、月の微光さながらであった。左目で視力を補うが、昼夜が入れ替われば目の役割も逆転する。
その不均衡に、慣れを覚えたのはいつからか。
「…くさい…」
すんと鼻を鳴らし、茨城は汚物を見る眼を、いっそう険しくした。
一体何日捨て置かれているのか。女だったのか男だったのか、絡みついている僅かばかりの布切れより、想像するより他ない肉塊の塚。身体を細く突き刺す月光に、横たわった骸の一つの胸部あたりが、むず痒そうに、もぞもぞ動く。開いた口の土色の歯肉はぐじゅりと腐り果て、縮み上がった舌が、餌を乞うているように真上を向いている。双眸の眼窩に穴が空いた死体。そんなものが、夥しく羅城門の下を埋めていた。
死体の隙間に足を抜き差しし、猫のように段を登った。ぴしゃん、と雨漏りが耳を打つ。怯えではない震えが背を縦に走った。
暗闇に、ぼうと灯る火があった。
一陣の風に容易く吹き消されそうな灯は生臭く、しかしその匂いは、蝋が溶けきったとして、拭える類ではない。調整の効かぬ嗅覚においては、鼻をねじ曲げた方があるいは幸せだ。それでなくとも眼に入る全ての光景は、ありとあらゆる形容において凄まじい。吐瀉物の発酵した強い胃液臭が充満し、澄んだ夜気をも犯す。人形(じんけい)は陰底に沈み込み、火によって微かに浮かび上がるが、床に横たわったそれにとっての光は、もはや侮辱である。
陰が揺らめいている。衣服から糸を抜き取るような、細い、細い音がする。ざんばらの髪は洞に住まう人食いのようであるのに、その膝元に見えるのは櫛であった。棒きれの手と櫛に、虱(しらみ)が噛んでいる。す、す、と、手を動かし、大きな石ころ―まだ鼻も目玉もついている―を、愛おしそうに膝に置いて、髪を梳かしている。
老婆は櫛に絡みついた髪を、一本、また一本、指で摘んでは並べ置いた。鬘(かづら)一人分の量が、傍らに広げた紙の上に、形見のように、宝のようにされていた。
火を蹴り飛ばすほど近くに寄って、茨城は老婆の仕草を無表情に眺めた。
なるほど、あいつが言っていたのはこの事か。
老婆の糸の如き白髪が、着物の背をうねって床に垂れている。白銀色の己のものとは風合いが異なるが、大蜘蛛が死肉を貪っていると違えられてもおかしくはない。
何をしている、とは訊かなかった。せっせと櫛を梳かす年老いた婆の薄く剥げた頭頂部を、死人の頭を見るように見た。
…売るのでございます。
喉を挽き潰した、ひしゃげた声だ。頭は上がらず、髪を抜き取る手も止まらない。
…売るのでございます。これを鬘にして、売るのでございます。
丸めた背が自らの言葉に音頭をとるように前後する。鼻梁を這った前髪の内側に、骸骨に皮を張り付けた顔の口だけが、ぱくぱく動く。櫛でとくのに余った左手は、頭髪の半分抜けたそれの頬を、やはり愛おしく撫ぜている。
…これは我が愛娘の櫛でございます。引眉の祝いに、我が贈った品にございます。あの子の髪は艶やかで美しく、七光りする貝殻を飾りにした櫛ほどの物が、きっときっと似合うであろうと。我の考えに、まこと誤りはあらなんだ。
す、す、と、一本、また一本抜く。
…しかし、まだ足りませぬ…。
老婆の嘆息に火の背が反った。
…娘の髪を梳いてやりたいのでございます。くすぐったがり屋でございましたから、優しゅうしてやらねば、お戻りにならないのでございます。大事な数が抜け落ちてしまいました故、恥ずかしゅうてお隠れになるのも道理にて、鬘を拵えてさしあげようと思いますれば、体なくば被せるものなく、さすれば銭の用意の内に、気に入りの鬘もできるであろうやと…。
胸元に差した札に、読経の文字。
老婆は痩身を縮こまらせ、されど手の櫛は、毟るほどに髪を掻き滑る。
…ありがたや。ありがたや。ありがたや。ありがたや。
そうして皮がずるり剥けた頭蓋を、がりがりと、がりがりと、掻く。
「それを売って、己が腹満たしたくはないか」
老婆の手がぴたり止まった。矢の速さで顎を上げた顔が魚の目で茨城を見た。それはとんと分からない罪状を言い付けられた下手人の目であった。老婆は黒々とした髪が絡みついた手を櫛から離し、身重の女風情に臀部をさすった。
満たすは腹にあらじ―ご存じでしょう、鬼の方―。
「…やまねぇなあ…」
知った声が頭上でうだるく言った。んー、と背伸びして仰け反り、枝に足をかけた姿勢で回転して、下にいる茨城にああだこうだとちょっかいをかける。茨城はそっぽを向いて、半分以上を無視した。
かれこれ十日以上降りっぱなしの雨で、人でなくとも腐りかける。千里を駆ける酒呑がつまんないを連呼しまくるのにも、いい加減耳にたこが出来そうだ。異形の願いは聞き届けられないのだろう。酒呑がどんなに駄々をこねても、雨雲が途切れる様子はない―今のところは。
寺では雨乞いではなく、陽乞いの祈りに切り替えられているという。散々祈祷しておきながら、あれではおてんとうさんも引っ張り回されて暇なしだ、と、酒呑がけらけら笑った。
羅城門をにわかに走り出てきた男の呼吸に、茨城は閉じていた眼を開く。男は神木に目もくれず、荒野の中を爛々と眼を光らせ、束にした人毛を手に握り締めている。おや、と木の上より見送った酒呑が面白そうに身を翻した。煮えた蜜色の瞳。足で払われた小枝がしなる。男は気付かず、何かやるべき事を成し遂げた、恍惚とした顔で、暗闇の奥地へ一心不乱に駆けていく。
桜が杯を懐に鎮座する木の上で、茨城は羅城門を正面に見た。白髪を逆さに垂らした髑髏の双眸が、闇に同化する男の背をじっと突き刺している。それはつと木に見る方向を変え、にたりと唇の両端を引き上げた。
あ、と発した男の声が荒野の何処かに消えた。
老婆の眼が笑った。
雨やみを待つ、ある暮方の事だった。
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あとがき
シリーズ二作目です。桜、茨城、酒呑、の、茨城のお話になります。中学生頃の国語の教科書には「山月記」など、ぼんやりと記憶に染みている話があり、「羅生門」もその一つでした。このお話は絶対白黒で映画を見たいです。
蛇足ですが茨木童子は羅城門に棲みついた悪鬼であったとか。それを読んで、やはり自分としては、茨城と書きたいと、何やらごめんなさいな事をやらかしております。書きたかったことをようやっと書けて満足です。原作と別サイドのお話として読んで頂けたら幸いです。