mist -ミスト-


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 深い眠りからフェイスは目覚めた。無意識の海から表層へ浮かび上がっていく感覚は、我知らず浅瀬に打ち上げられた鯨のものに例えられる。ベッドから見上げ、まず目に入るのは、天井と部屋の四方を張り巡らす壁紙の地模様だ。目が慣れるまで、横たわったまま時間をやり過ごすのが習慣だが、今日は少しばかり急がなければならない。フェイスは身を起こした。
 部屋を出て斜めに歩いた箇所には、共同のキッチンがある。テーブルにはもうジャム瓶が幾つも並び、バターナイフとスプーンが行儀悪く散らかされている。椅子の一つを占領し、夢中になってパンにかぶりついている少年。次はどの瓶にしようか、食べている最中から手にとって品定めしている。
「おはよう、マイケル」
「お、おはよう、フェイス」
 マイケルは大きな青い目をした男の子だ。肌は青白く運動不足気味。肥満体質で、決して不良品ではない椅子の足が今も悲鳴を上げている。トーストを焼くか聞かれ、フェイスは水差しだけ受け取って自分でグラスに注いだ。
「荷物は詰めた?」
壁に掛かった時計をちらりと見やる。秒針はなく、二本の針が八時半を指していた。
「ま、まだ、だ。ご、ごめん」
 マイケルはどもり声をいっそう気弱にした。
「いいわ、焦らないで。でも今日中にお願いね」
「わ、分かった」
 水を飲み干したフェイスは、来た道を戻るようにキッチンを出た。
「フェイス! フェイス!」
 頭の上から女の声が降ってきた。二階通路の手摺りから身を乗り出して手招きしているのはリサだ。サイケ柄のノースリーブワンピースを身につけている。オレンジ色に染めた髪の一部は白のメッシュ。爪はラメとビーズでデコレーションされており、指の一本一本が樹脂の赤い薔薇でふんだんに飾り立てられている。
「管理人さん、これ運ぶの手伝って」
 階段はキッチンのある側の壁とは真逆にある。フェイスが上っていくと、五個のトランクが通路に吐き出されていた。見ただけで高いと分かる銘柄だ。
「明日んなって下まで持っていくの面倒だから、今のうち運んどこうと思って。ホールに置いといていい?」
「それは構わないけれど、」
 ウィリアムが帰ってきたら怒らないだろうか。それに女の腕では時間がかかりすぎる気がする。手伝ってくれと言ったリサ本人は、良く仕上げた爪に息を吹きかけていて、自分の荷物を率先してどうにかするという気は微塵も無いようだった。仕方なく振り返った下に、姉弟の姿が見えた。
「ソラ、クロエ」
 二人は立ち止まり、片方がこちらを向いた。腰まである長い髪の女性がクロエ、首元で緩くカールしているのが弟のソラだ。どちらも銀髪で顔立ちも美しい。彼等はフェイスの部屋隣に、居を並べて住んでいる。  
「おはようございます、フェイスさん、リサさん」
「おはよう、ソラ。起きがけで申し訳ないのだけれど、リサが荷物を降ろしたいと言ってるの。手伝ってくれるかしら」
「いいですよ」
 彼は姉に小声で話しかけ、すぐに階段を上ってきた。リサが「悪いわねー」と、全然悪そうにしていない顔で迎える。
「これですね」
 軽々と両手にトランクを持ったソラに続いて、フェイスも一つ持って階段を降りた。
「クロエはあのままで平気なの」
 彼女はホールの真中辺りに立っている。
「大丈夫です。今朝はフェイスさんの方が忙しいでしょう。手伝う事があったら言って下さい」
「ええ、でも私は大丈夫。自分の荷物をまとめて頂戴」
「僕のはあまりないですから。姉も、他の人に比べたら少ないと思います」
 ソラはホールの端に荷物を置くともう一度階段を上っていき、同じくして両手に降りてくる。リサは二階で気楽に手を振っている。
「やっぱ男がいると助かるわー。年寄りと不良は戦力外で、どうしようかと思ってたんだ」
 どこまでも自分棚上げなのがリサらしい。荷物を運び終えたソラは、フェイスが彼を呼んだ時と同じ姿勢のクロエ―身動ぎ一つしない―の手を取った。
「終わったよ。行こう」
「―」
 クロエの緑の瞳が、対となるソラの青い瞳と重なった。それはフェイスにも向けられたが、彼女の顔をすり抜けて、後ろの壁を見ているような、うろんな目をしていた。弟に手を引かれ、盲目の少女のように一歩、また一歩と前進していく。彼女が声を発すのを、フェイスも他の住人も、誰も聞いた事がない。
「あたしはまだやる事あるから部屋に籠もるわ。ありがとフェイス、ソラ」
 ちゅばっと音付きのキスを投げつけ、リサは自室のドアを勢いよく閉めた。落ち着かない朝だが、人の事を言っていられる身ではない。フェイスは息をつく間もなく、次の仕事にとりかかる為にホールを闊歩した。

  
 草原の朝は緩やかに訪れる。湿った空気に立ち込める濃霧は、午後になっても晴れない日の方が多い。一面の緑が風に吹かれ擦れ合うのを窓に当てた耳で聞きながら、鈍色の雲に閉ざされた太陽を思う。強すぎる光も、ここでは腐乱した魚の目をして頭上に漂うばかりだ。
 闇が立ち退く狭間の刻に、フェイスはしばしばローブを纏い、扉を出る。雨の匂いに囲まれた白塗りのポーチの前に立つと、吐く息の冷たさが全身に染み渡っていくのを感じる。腕を伸ばせば指先が吸い込まれ、霧そのものになった気すらする。
 目に映るものは何一つない、白く凍った世界。名も知らない鳥だけが自由にそれを飛び回る。
「鹿を見たんだよ」
 外から帰ったミスター・ホーキンスが、コートを脱いで言った。今年七十の誕生日を迎える年長者であり、知識人でもあるが、彼との会話は時として迷宮に迷い込む。誘い込んだ本人はいつの間にか姿を消し、自分だけが取り残されるので、予め脱出の糸を備えておかなければならない。
 照明器具の裏拭きをしていたフェイスは足場を降り、彼に温かいミルクティーを用意した。ホーキンスは彼女に座るよう手で促し、フェイスはそれに従った。
「鹿、ですか」
「そうだ。角は生えていない。背に横縞模様のある、体の大きい立派な奴だった」
 意気揚々として両手を横一杯に広げる老人を前に、フェイスの目には窓の景色が映る。依然としてそれは同じ色をしていた。ホーキンスは灰がかったグレイの瞳をしているが、視力は弱くない。視野が開ける距離まで近づいてきたという事だろうか。野生の鹿が、腕二本にも満たない所まで。
「ところで、貴方はどれくらいここに居るのでしたかな」
「十年です」
「他の住人達は」
 フェイスはつっかえることなく諳んじた。
「マイケルが六年、リサが五年、クロエとソラが同期で四年、マリーも四年、ウィリアムが二年ですわ」
「私は三年だ」
 ホーキンスは深く頷いた。
「貴方のお考えは変わらないのでしょう、支配人。今日限りでここをたたみ、明日の朝には全員が出ていくというのは」
 ホールに置かれたトランクを、彼は見過ごしていなかった。
「残念です」
 ホーキンスは窓の向こうを見つめ、ぽつりと吐いた。時計は十一時になっていた。
 
 ホールに戻ると、十歳ほどの少女が熊の縫いぐるみを抱え、階段の途中に座っていた。白いタイツにエナメル靴。フリルのついた襟付きのワンピースを着ている。
「お洋服はもう詰めたのかしら」
 少女はこくんと頷いた。
「マイケルが準備し終わるのを待ってるの」
 栗色の髪を揺らしたマリーとマイケルは歳も近く、友達同士だった。
「フェイスはもう終わったの?」
「―いいえ、まだよ」
 住人達には言い聞かせて回っているが、自分の物は鏡一つ磨いていない。そう、とマリーは目を擦った。あまり眠れていないようだ。
「ごめんなさい、疲れたのね」
 隣に座り、柔らかな髪をそっと撫でると、マリーは頬をフェイスの胸に寄せ「いいの」と掠れた声で言った。
 少女が現れた日をフェイスは覚えている。両親の同伴はなく、頭を剃った老牧師に連れられて来た。
(お願いします。どうか何も、何も聞かず。この子をお引き取り下さい。)
 牧師は胸の前で十字を切り、逃げるように霧の奥へ消えた。少女は縫いぐるみと小さなトランクを片身に置き去りにされた。
「私は何も要らないわ。パパもママも、誰も何も何一つ」
 マリーは囁く。
「それでも行かなきゃならないのね。夜が明けたら」
 フェイスは寄り添う少女の肩をじっと抱いた。明日の朝全員が出ていく、それはもう決まった事だ。私達はそのルールに則って今日を動いている。
「少し休みましょう」
 マリーを立たせ、部屋へ連れて行った。彼女の部屋は二階の廊下の一番奥、四つの部屋を横切った角を曲がった箇所にある。キッチンのほぼ真上と言ったら分かりやすい。ドアを開いた中は小綺麗に片づいており、ベッドのシーツの白さが目を惹いた。
「私が出たら鍵を閉めて。昼食が出来たら呼びに来るわ。といっても、サンドウィッチのような物しか出せないけれど」
「十分よ。忘れないでね」
 フェイスは約束し、部屋を出た。
 目を離したほんの少しの間に、階下が賑やかになっていた。談笑だと思ったのはフェイスの思いこみで、話し声が近づくにつれ、和やかでない空気がホールに漂っているのに気付かされた。腕を組んで立っているソラと、ダイニングルームから出てきたホーキンスと、そばかすで赤毛のあれはウィリアムだ。今朝は見かけなかったが、外出から帰ってきたようだ。
「だから、何度も言わせんなっつってんだろ!」
 唾を飛ばす勢いで、ウィリアムことウィル(住人達はそう呼んでいる)ががなり立てている。ソラとホーキンスはお互いに顔色を窺い、対応の気味を計りかねている様子だった。階段を降りるブーツの音にソラが気付き、彼の表情に他の二人も顎を捻った。
「どうしたの」
 フェイスが尋ねると、
「どうしたの、じゃねぇよ」
 ウィルはジーンズの膝を叩き、金属の輪が幾つもはまった腕で、大袈裟に宙を殴りまくった。
「俺見たんだ! 知らねぇ女がここに立ってんのを!」
「それはリサじゃないのかい」
 ソラが言うと、ウィルは「あんなケバい女と間違えるかっ」と、二階まで響き渡るような大声で否定した。
「じゃあ、フェイスだ。彼女はよく見回りをするし、この広間も当然行き来する」
 ホーキンスの言葉にも、ウィルはてんで耳を貸さない。それどころか益々猛って、自分より年上の彼等に食ってかかった。
「何年この家主と顔突き合わせて住んでると思ってんだ糞ジジイッ。こんな黒い髪してたら後ろ姿でだって分かる。でも、俺が見たのは、腰まで長い赤みがかったブロンドだった。お前の姉貴がヅラ被って出たってんなら別だがよ」
 そう口走ってソラの胸ぐらを掴もうとしたところに、フェイスが割り込んだ。
「一体何事なの」
 ソラが両肩を竦めた。
「ウィルが見たって言うんです。知らない女の人がいるのを」
 困った顔で、ウィルの言い分を代弁する。
「それは何時(いつ)の事なの」
 ウィルは息継ぎもせずまくし立てた。
「五時半。ロックあおって寝て、それぐらいに目ぇ覚めちまって、小便行こうと降りてきたら、そこの扉の前に背中向けて立ってた。頭ガンガンしてたし、そん時はよく見もしなかったけどな。でも後ろ姿だけは思い出せる。あれは女で赤毛だった。絶対ぇそうだった」
「フェイスでもクロエでもないとなると、あとはマリーしかいませんが」
 ソラは角の部屋に視線を投じたが、ウィルの口振りから察するに、彼が見たのは成人女性だ。いくら酔いが回っていたとはいえ、子供と大人を見誤ったとは考えにくい。
「―いや」
 一人熟考していたホーキンスが静かに異を唱えた。フェイスを含めた三人の視線が一斉に移動し、彼を見つめた。
「もう一人いるではありませんか。それも、ごく近くに」
「あ? ―ああっ」
 ウィルの大声を間近に聞きながら、フェイスは老人と目を合わせて瞬きしなかった。
「先ほど話した時、貴方は彼女の事をお忘れだったようですが。ここにはもう一人、女性がお住みでしょう。レディ・ローズが」
 ホーキンスの立つ位置から背後に歩いた場所に、部屋のドアが四つある。フェイスが寝起きする自室と、向かって右に一つ。左隣二つにはソラとクロエが別々に住んでいる。ドアの外装は皆同じだ。幾何学模様をあしらった一枚板に、くすんだ真鍮のノブが付いている。二階の五つと合わせ、計九部屋。どの位置にするのかは、来た順に自由に選ばせた。部屋の鍵の形は、差し込む型が微細に異なるだけのビット・キーなので、混ざらないように注意しなければならない。フェイスも、純銅の棒の部分に、刺繍入りの細い紐を巻いて他と区別出来るようにしている。
 マリーの部屋から通路を渡り階段へ、ホールの端から自室に辿り着き、そして右へ、フェイスは視線を変えた。ホーキンスと話した時、フェイスは確かに彼女の事を口にしなかった。彼は何も言わずに聞いていたが、狙いはそれだったのかもしれない。
「私は存じません。でも、ウィルが見たというならそうなのかもしれません」
「かも、と仰られるのは何故ですか」
「彼女の姿を覚えていないからです」
 ドアの向こうに彼女はいる。ホーキンスに話さなかったのはわざとではない。今言った通り、ローズの容貌を思い出す事が出来なかったからだ。「管理人の癖に覚えてないのかよ」とフェイスを睨め付けたウィルの瞳に、苛立ちが滲んでいた。ソラは不安な顔で、閉じたドアを凝視した。

 そう、フェイスを除き、住人達は『誰も』彼女を見たことがない。

「彼女の部屋は、私がここに来る前から閉まっていましたね。昔、貴方に名前を伺ったと記憶しておりますが、確か一番古い間借り人ではなかったですかな」
「療養の為の滞在とお聞きしております。日中は構わぬようにと。夜の行動は私にも判りかねます」
「にしたって、なぁ。中で死んでんじゃねーの?」
 ウィルの発言を、フェイスは否定した。
「それはないわ。ノックすると返事があるの。コツン、と内側から叩く音が」
「顔写真など預かっておられないのですか」
 ホーキンスの問にフェイスは首を振った。一同はふっと肩を下ろし、決め手の無い論議に失望するかのように黙り込んだ。やがて老人のしゃがれた声が言った。「明日の朝には分かる事です」と。

 
 午後になり雨が降り始めた。霧に閉ざされた家は静寂に沈み、屋根に立つ銅板の風見鶏を細かな水滴に濡らした。住人達は自室で荷造りに励んでいる。通路を行き来する足音や挨拶程度にやり取りする声が聞こえるが、それも常より忙しない。
 一階の窓拭きを終えたフェイスは、キッチンで軽食を作っていた。薄目にスライスしたライ麦パンにチーズとハムを挟んだものと、ラズベリージャムを塗った二種類。普段は住人達の各々が勝手に食事を作っているが、調理器具を片付けてしまっては、料理出来る物も限られてくる。夕飯はレトルトだが、食べるか否かは個人に任す。
 開け放したドアを青年が入ってきた。長袖のシャツ。ソラだ。
「何もないとはこの事よ」
 せめて見た目だけは美しく並べた皿を、ご自由にどうぞと青年に差し出した。ソラは苦笑し「頂きます」とチーズの方を手に取った。
「姉にも一つ頂いてよいでしょうか」
「どうぞ。彼女はまだ部屋に?」
「はい、何か手伝う事があったら呼ぶように言ってあります」
 失語症かと思われたクロエは、弟とは話すようだ。一対の容姿をした彼等を見ていると、言葉などなくても意志疎通が可能であるように思うが、ソラはそこまで分かり合えている訳ではないと言う。
「僕も分からないことが多くて。身体的にも、よく見ると違いが幾つかあるんですよ」
 その一つが瞳の色だ。クロエの緑とソラの青。向き合ったそれは熱帯の海と空の境。もっとも、彼等を明確に分け隔てているのは性別ではあるが。今朝のクロエは薄緑のワンピースを着ていた。彼女は本当に、ガラス箱の人形のように美しい。
「サンドウィッチを配ってくるわ」
 ジャムの一切れを別の皿にしてソラに渡し、もう何度目かになる同じ経路を、再び歩いた。

 一階部分は素通りし、階段を上った眼前の部屋をノックした。メタ系の暴力的な音楽が、隙間から通路にまで洩れている。二度目に強く打とうとした拳は空を叩き、赤い髪の少年が現れた。ちりぢりにした髪の毛先はひどく不揃いで、視界を覆うであろう長い前髪が睫毛にかかり、不健康そうな痩せた顔に備わる両目は、いつも睨みを効かせている。
 フェイスを見てあからさまに嫌な顔をしたウィルだったが、差し入れを見せると、「おっ」と手を伸ばしてきた。ハムサンドをぺろりと平らげ、
「あんたには悪いけど、全っ然片づいてねぇ」
 口を広げた大ぶりのボストンバックがベッドの脇に見えたが、エレキギターなどの楽器類や大量のCD、スポーツ雑誌が所構わず山積みになっている。
「ちゃんとやるから、中に入るのは勘弁してくれよ」
「今日中に終わるのかしら」
「終わらせます」
 面倒事には丁寧な言葉遣いがいいと誰に教わったのか。さあ行ったと、サンドウィッチだけちゃっかりせしめた手でフェイスを追い払おうとする。
「ねぇ、あれは本当だったの」
「あれって、あぁ、女の事か。見たさ、見たけど誰も信じないんだろ」
 ウィルは不気味な物を見る目つきで、階下を一瞥した。
「あんたの隣部屋の女だったと言われればそうかもな。俺あいつ見た事ないし、あんたは家主のくせして顔覚えてないって言うし」
 家の管理者はフェイスだ。彼等を迎え入れた時、最低一度は相手の顔を見ているはずだった。脳の片隅に、辛うじて白黒の映像が保管されている。古い映画館の席に座り、サイレント映画を見るように、彼女が居た場面を手繰り寄せようと試みるのだが、フィルムが擦り切れてしまっている。長い髪。ワンピース。開いた扉の中に、真っ先に目に入るホールのシャンデリア。壁伝いに二階を結ぶ階段。九つのドア。


 ―ここが貴方の部屋よ。大丈夫、怖い物ハナニモナイ。―


「おい、…フェイス、管理人!」
 モノトーンの映像に潮騒が押し寄せ、記憶をいっぺんに攫って退いた。浜辺には水跡が残り、波音の残滓が反響する。
 大丈夫か、と自分を見下ろす少年を二度瞬きして認め、フェイスは手にした皿に目を落とした。
「ボーっとしてんなよ」
「あんたねぇぇっ!!!」
 ウィルが言ったと同時、隣部屋からリサが飛び出してきた。
「もう我慢出来ないわ。その、大音量の騒音止めなさいよ。壁筒抜けで、頭痛いったらありゃしない!」
「てめぇのキンキン声だって立派な公害だろうが!」
「なぁんですってぇーっ!?」
 あっと言う間にいがみ合いの開始だ。後続のウィルに空き部屋の選択権はなかった。だが、隣人に文句があるのはリサとて一緒。この状況で昼食を勧めるのはやめにしておいた方がいいだろう。部屋割りの責任を追及される前に、フェイスは次の部屋のドアをノックした。「お入りなさい」と、中から声が返った。
 アームチェアに座った老人は、指を組んで黙祷していた。後ろ手にドアを閉じると、音楽をいくらか遮断出来た。
「何時だね」
 老人は尋ねた。
「もうすぐ二時になります」
 部屋には物がなく全体的に寒々しい。豚革のトランクが一つ、椅子の脚に寄り添っているぐらいで、頼りない風情を醸し出していた。
「雨が降ると膝が痛む」
 そう言って右膝をさする。
「用意が早いのですね」
「必要な物はこれくらいのものだよ、支配人」
 家主、管理人、と殆どがそう呼ぶ間で、ホーキンスだけがフェイスを別称する。フラットよりは堅実な造りをしているが、格付けされたホテルほど豪華ではない家屋の主を例えるには、少し違和感がある。フェイスは皿を差し出した。
「この家に猟銃はあるかね」
「ございません」
 狩猟の趣味があれば、そのような物も用意があったかもしれない。家と外は一枚の扉で仕切られている。開け放てば蕩々と続く原野。鳥の唱う声は聞こえても、深い霧に遮られ、影を追う事も叶わない。
「鹿を見たんだよ」
 キィ、と椅子が軋んだ。
「角のない鹿ですわね」
「明日の朝は早いのかね。ここを完全に出ていく前に、もう一度散歩したい」
「いつものように遠出をされては困りますが、六時頃に起床して下されば可能です」
 灯取りから辛うじて差し入る光に照らされながら、老人は満足そうに微笑んだ。ならいいと、皿は手つかずにし、再び目を閉じた。
 ホーキンスの部屋を出ると、音楽は消えていた。階段上に並んだ二つのドアは閉じられ、何事もなかったかのような静けさが通路に満ちていた。二階から見るホールは、カーペットの色で赤黒い紫に染まっている。シャンデリアの灯は点いていない。屋根を打つ雨音が激しさを増し、ねっとりと重い湿気が肌に絡みつく。フェイスはホーキンスの隣部屋のドアを叩いた。
 少年の部屋はホーキンスと対照的だった。ベッドの水色の掛け布団は、起きあがった時の形のまま固まっているし、何かのヒーローを象った物だろうか、西部劇の主役の姿をしたゴム人形が枕元にある。ポスターが壁に何枚も張り付けられ、サッカーボールを入れたネットが下に転がっている。床には淡い金髪の少年が、ぽてっとした体を前のめりにして、何かをじっと眺めて座っていた。
「マイケル」
 声をかけると、少年はビクッと体を震わし、目をぱちぱち動かした。
「ご、ごめんフェイス。まだ、全然やれてない」
「端の二人も同じよ。お腹は空いてない?」
 今朝彼が食べていたメニューと代わり映えしないが、マイケルはおずおずとした手付きで、ハムサンドを取った。リスが木の実を囓るような食べ方だ。
「何を見ていたの」
 膝を折ったフェイスが床に開かれた本を覗き込んだ。詳細に描き込まれた色鉛筆の絵。赤い実を口に挟んだ鳥の絵などがある。
「これはツグミね」
「う、うん」
 スズメ、コウノトリ、キンケイ、アリスイ。電線にとまり、欠伸しているように見えるアマツバメ、水辺で体をぴったり寄り添わせたつがいのオシドリ、下面翼の白に黒の斑点模様が美しいミサゴ。どれもに特長があり、目に楽しい。綺麗な本だとフェイスが褒めると、マイケルは首を肩に埋めるようにして笑顔を作った。
「フェイスは知ってる? あの、朝に鳴く鳥の名前」
 空と地の境界が不明瞭な野に、細く長く響き渡る。姿を確かめられない白の世界に、声だけが。僕は今朝も聞いたよと、マイケルは耳を澄ます。聞こえるのは雨音。それ以外聞こえない。
「知りたいんだ」




 二階の突き当たりに住むマリーは、ノックに気付き顔を出したものの、ひどく眠そうだった。少女は軽食を半分食べ、半分を皿に残し、またベッドに入った。
 一階に降り、階段に近い側のドアを叩いたが、クロエの返事はなかった。ローズの部屋も同じだ。フェイスは皿をキッチンに戻し、自室に鍵を挿した。
 机の上は本が積み重なった状態で、一番上のそれには薄く埃が積もっている。クローゼットの中は洋服がハンガーに掛かったままだ。
 机と同じ模様が施された木彫りの椅子に腰を下ろし、首のスカーフを弛めた。つかえていた空気が一気に吐き出されるようだった。きつく結い上げていた髪を解くと、鏡台に黒髪を胸まで垂らした女が映った。近づいて鏡に手をかざす。これといって特長のないブラウンの瞳、全身を固めたグレーのドレス、血色の悪い肌が一段と冷えて見える―それが私だ。
 フェイスはベッドの片隅に腰掛け、壁を見つめた。向こうの彼女が今何をしているのか、見当もつかない。
 しなければならない事はまだ沢山残っている。しかし、体が異様に重い。水を吸った綿のよう。重力が重くのし掛かり、瞼までが落ちていく。


 ―夢。森の中だ。深く翳る木立の奥を、裸足で歩いている。足裏は小枝や石に傷付き、跳ねた泥で膝下がどんどん汚れていく。にも関わらず、私は足を止めなかった。細切れの息を吐き出しながら、拓ける保証のない先を指で掻く。風すらも鋭く尖り、頬を切るように過ぎていく。それでも歩かずにはいられない。私はとても急いでいた。
 道はない。うねった幹と枝が流れる方へ、当て所もなく進んだ。辺りは静まりかえり、濃い緑に閉ざされた遙か頭上を、名も知らない鳥が鳴いている。地を射て降り注ぐ雨が、ぬかるみを作って足首を掴もうとする。追いすがろうとする何かから逃れるように、泥を蹴った。そうして着いた場所は、森の何処と例えられるだろう。
 「彼女」はそこに横たわっていた。顔の瞼、鼻筋を、雨に打たせるまま、いっそ美しいほどに。「彼女」の丈に棺は丁度よく、膝を伸ばした状態で収まっている。
 私は棺の傍で息を潜めて「彼女」を見下ろし、体に手を伸ばした。
 鳥。鳥の影。翼の形のそれが棺を塞いだ僅かの間、気を削がれ天を仰ぐ。首を戻した中に影はない。
 ―視線。
 二つの眼(め)、両目が私を見上げていた。見開いた私のそれとぶつかり合い、歪みも笑みもしない。温度をとうの昔に失ったはずの唇が、ほんの少し歯を覗かせている。「彼女」は痩せた腕で私の左足を掴み、重りにして身を起こした。


  
 全身が、冷たい。腕が、背中が、小刻みに震えてとまらない。足下には冷え切ったシーツがある。
「―」
 どうしてこんなに冷えるのだろう。家全体が氷漬けになってしまったようだ。冷気はドアの外側から漂っている。凍えそうなほどに寒く、吐く息まで凝(こご)っている。ベッドのシーツを両肩に羽織り、ドアを開いた。
 ホールには誰の姿もなかった。扉が口を開き、水を孕んで湿った草花がうっすらと見えた。ポーチに鍵が落ちていた。その先には、霧と同化してしまいそうな髪の色、ローブを着た人影が、フェイスを向いて直ぐに立っていた。ソラによく似た顔立ちの住人は一人しかいない。彼等は何時だって対なのだ。
「来ては駄目だと言ったでしょう」
 初めて聞くその声は、小さな子供をあやす母親を連想させた。クロエの目はフェイスを越えて、背後へと語られていた。
「パパはあなたを怒ってたんじゃないのよ。いつもあなたを愛してた。あなたが泣けばきっと辛い。でも私達二人が泣いたら、ママは悲しみのあまりに死んでしまうでしょう。だから私は、あなたより先に泣くのをやめた。泣いてはいけない。あなたは帰り道を一人で歩けるのだから」
 霧が左右から手を伸ばし、彼女の体を少しずつ隠していった。遙か遠くで鳥が鳴く。あの鳥の名前は何ていうノ?
「あなたと揃いの髪が自慢だった。私の弟、私の半身」
 ローブが風に舞った。白い蒸気に掻き消えていく最後、彼女の目はフェイスを見て逸れなかった。
「明日」
 消失する寸前、彼女は言った。
「明日の朝よ」




U


 フェイスはベッドに座っている。両足を床に揃え、飾り気のないドレスをいつものように身につけている。するべきことは変わらない。予定を忠実に実行するのが管理人の役目だ。
「フェイス。おはよう」
 キッチンにはホーキンスとマリーがいた。よく眠れたかと尋ねると、マリーは機嫌良く「うん」と答えた。二人が祖父と孫のように話していると、ウィリアムが欠伸して入ってきて、「コーヒー」と開口一番フェイスに注文し、ダイニングのソファに腰を下ろした。喫茶店じゃないのよ、とマリーがぼそりと呟いた。
「雨、上がったみたいね。良かった」
 ソーサーを用意したフェイスが言う。ホントよね、と返してきたのはリサだ。
「今日で最後なのよねぇ、管理人さんのコーヒー飲むのも。アタシ結構好きだったんだけど。ねぇウィル?」
 手持ちのポップコーンを食べていたウィルは、ぶはっと吹いて咳き込んだ。涙目でリサを睨み、
「知らねーよ!」
 むくれる声に、リサとマリーがしたり顔でにやりとする。
「おはようございます」
 ソラも起きてきた。フェイスは彼にもコーヒーを煎れた。
「昨日は徹夜?」
「はい。思ってたより大変で、捨てられる物がなくて困りました」
「砂糖は」
「いりません、このままで。あぁそれぐらいで、ありがとう」
 彼は屈託のない笑顔を浮かべた。住人達に一言添えて挨拶する様は、昨日に増して饒舌だ。
「天気がいいみたいですね」
 空の水色と柔らかな緑、濡れた焦げ茶が窓の向こうに広がっている。最悪一ヶ月に一度視界に収められるかどうかの、滅多にない景色だ。土を草が覆うだけの、無名の土地には違いないが、美しいか否かは問題ではなく、目に出来るか出来ないか、その一点で、外のそれは成り立っている。物の形が鮮明であるのに寧ろ違和感を覚えるほどに、霧はこの家と長く共存してきた。
「ミスター、今朝の散歩はどうでした」
 ホーキンスは「ほ、」と浮き足だって笑う。
「晴れていたからね。原っぱの調子を隅々まで見渡せた。こんなにクリアなのは、ここに来て初めてかもしれないよ」
「それなら鳥も見られるかもしれませんわね」
 丁度よく入ってきたマイケルが、体をそわそわと揺らしながらテーブルについた。フェイスはミルクをグラスに注ぎ彼に渡した。パンを千切る。皿をとる。スープに塩をふる。ゆっくりと巻き取られていく一日は、まだ明けてすらいないように思う。だがそれは今朝、今時分にも終わるのだ。
「外を見てきます」
 フェイスはキッチンを出た。
 草原は広大な野草の海原でありながら、生命の所在を見せつけるような尊大さに被れてはいない。空には薄く引き延ばした水の名残があり、遠くに密集した黒い森が地平で影を作っていた。さやさやと揺れる葉。丈の短い草花と蔓草が、絡まり合って綾を描く。水分を十分に含んだ土は、植物を根本から潤すだろう。
 ―自然。そう、自然。であればこそ、それを讃美するのは、今この場で最も不自然な行為。
 ただの一言も、感嘆さえ洩らさず、フェイスは草原を見ていた。人の手が加えられていない緑の海は、全ての始まりのようであり、終わりのよう。私達の問いには何一つ返さず、何を問う事もない。
 くしゅん、と軽いクシャミがした。ソラが表に出てきていた。ダウンジャケットを胸の前に掻き合わせ、フェイスの隣に立った。
「珍しいですね。こんなに良く見えるのは」
 夢を見たのだと、彼は言う。
「知らない街の中に僕はいました。右と左に全く同じ建物がずっと並んでいるんです。何かを探して一生懸命走ってた。そうしてるうちに、ショッピングモールに紛れ込んでしまうんですが、ガラスで仕切った反対の通りに買い物客がいっぱい歩いているのを見て『あれだ』って思うんです。多分、誰かを見付けたんでしょう。ガラスに手を付いた瞬間、僕はベッドに戻っていた」
 ソラは上着のポケットに手を入れた。
「僕の部屋に落ちていたんです」
 そう言って見せた手の平に、楕円型のエメラルドがはまった指輪が乗っていた。粒を挟んだ台座に、二頭の獅子の細工が施されている。
「フェイスさんのですか」
「―いいえ」
 フェイスは自分の手で包み込むように、ソラの指を握らせた。
「でも見付けたのなら、あなたが持っていて」
「でも、」
「それが一番良いのよ」
 フェイスはそっと手を離した。






 住人達が発つまでの時間、フェイスは家の中を隅々まで歩き、彼等の持ち物が置き忘れられていないかを確かめた。自室とダイニング以外、身の置き所のない家屋だが、何度確かめてみても、人の手を離れた物が隠れ場所を確保しているものだ。棚の中に自前のマグカップが紛れ込んでいたり、共用のバスルームのロッカーに、手鏡がぽつんと取り残されていたりする。それを一つ一つ回収して、持ち主を探してまわった。
「サンキュ」
 髑髏マーク入りのマグカップは、予想を違わずウィルの物だった。
「何か足りねーなーって思ってたんだ」
 チリチリした髪を掻いて「これだったんだな」と、しっくりきた顔で頷いている。彼はホールの一角に荷物を出して座り込み、ギターの弦を調整していた。ジーンズにチェーンを垂らし、針とボタンの沢山付いた時計を腕に巻き付けている。カップを鼻の前に取り上げたウィルは、しげしげとそれを眺めていたが、「なぁ、フェイス」と、従姉妹を相手にでもするような調子で話し始めた。
「もう出てくって時に、こんな話すんの変かもだけどさ。そこらにある物、例えばこのカップでもいいけど、おかしな気分になる事ってないか。前にどっかで見た事あるみたいな」
「デジャ・ヴ?」
「似てるけどな」
 ウィルは再びカップに目を落とす。
「俺、これ持ってきた覚えないんだ」
 ウィルは肩を竦めた。
「ないって思って、次に『何が?』って思ってた。あんたがこれ持ってきた時、俺が気にかけてたのはこいつだって分かった。家おん出された時に置いてきちまったサイン入りで、ずっと気になってた」
「でも、ここにあるわ」
 フェイスは髑髏を見下ろした。頭蓋骨に表情などありようもないのに、歯の隙間から笑い声が聞こえそうだった。ぐらりと足下が揺れた。吹き抜ける風。棺に浮かんだ二つの眼。
「おい、大丈夫か」
 黙り込んだフェイスを、ウィルは訝しげに見た。
「…えぇ。じゃあウィル、この鏡、誰の物か知っていて?」
 フェイスは手鏡を差し出した。薔薇と蔦の模様で縁取りされており、実用以上に装飾に手が込んでいる。
「マリーかリサのじゃねーのか。おい、そこ歩いてる奴」
 通りかかったリサを呼び止める。リサは、途端鼻歌を止めて「なぁによ」と不機嫌丸出しで近寄ってきた。蛍光ピンクのミニスカから惜しげもなく露わにされている太股が、歩くのに合わせて肉感的に揺れた。
「リサ、これ貴方のじゃなくて?」
 鏡を見せたが、
「やぁねえ。こんな骨董品みたいなの使わないわよアタシ」
 よくよく確かめもせず一蹴されてしまった。だが、彼女がそう言うのならそうなのだろう。タンスの奥に引き籠もっていそうな小道具など、リサの趣味に合わない。続いて階段を降りてきたホーキンスにも尋ねてみたが、自分のではないと言う。
「女性の物とは限らないのではないのかね」
 ホーキンスはそうアドバイスをくれたのだが、
「きっとあいつのよ」
 リサが鼻先を突き付けた部屋は、壁の一部のように閉じている。気味悪ぃ、とウィルが舌打ちした。彼等にとって、ローズの話題は悪い風のようなものだ。
「おや」
 ホーキンスに指摘され、ウィルは片腕を上げた。
「…あぁ?」
 彼の時計は十時十七分で止まっていた。



 ダイニングのソファでは、マイケルとマリーが並んで本を覗き込んでいる。歳の近い二人は姉弟のようにして一緒にいる事も多い。マイケルのどもり声は、マリーには気にならない。
 昨夜ぐっすり眠ったというマリーは、昨日よりは明るい表情をしている。鏡の事を尋ねても、知らないとしっかりした口調で答えた。マイケルも覚えがないのでは同じだった。
 快晴は彼女にとってあまり喜ばしい天気ではないようだ。
「嵐だったらまだ居られたのに」と、拗ねた風に唇を突き出し、ずるずるとソファに身を伸ばした。マイケルは小刻みに体を動かし、本と外の景色を見比べている。ここを出たら何をしたいというフェイスの問いかけに、マイケルは足踏みして答えた。
「も、森を、歩いてみたい」
「マイケルは鳥が見たいのよ」
 二人が見ていたのは、昨日の昼、マイケルが読んでいた鳥の本だった。
「フェイスも、一緒。一緒に行こう」
「…ごめんなさい。私は行けないの」
 小さい二人を最後まで見送りたい気持ちはあったが、フェイスはそう言って少年の手をとった。自分にはまだ、家を完全に空にするという仕事がある。
「フェイス、フェイス」
 マリーが膝を立ててフェイスに抱きついた。その軽い体には、質量が存在する温もりが確かにあった。
「忘れないでね。私の事、忘れないで」
 フェイスはマリーの髪を掻き上げ、小さな額にキスし、柔らかい手を握った。陽が南を目指しても、肌に感じる気温に差は感じられず、静寂を切り刻む壁時計の音だけが、時間の進行を正しく示す。
「さぁ、行きましょう。マリー、マイケル、」
 フェイスは静かな動作で、マリーの手から部屋の鍵を抜き取った。


* * *


 「う、わーっ! いい天気!」
 誰よりも早く扉を出たのはリサだ。彼女は街の方に住みたがって住まいたがっていたから、この家に対しての未練はそれ程ない。鍵を返して、魅惑的な笑みでウインクした。
「じゃあね管理人さん。世話してもらってありがと。街に来る時はその黒い服やめなよね。折角いい素材してんだからさぁ、何ならアタシがいい男紹介してあげるけどぉ?」
「オメーみたいなアバズレとは違ぇんだよ」
 ウィルの毒吐きにもリサはどこ吹く風だ。やって来たタクシーに踊るように乗り込み、アイドルまがいに中から手を振る。後部座席と荷台はトランクの山だ。野原にたった一本通るあぜ道を、左右に大きく揺れながら走っていった。
「じゃあな」
 鍵をフェイスの手目掛けて放ったウィルは、車のタイヤの跡を歩き出した。だが、呼び止められて一瞬きょとんとし、二人の子供を街まで一緒に連れて行って欲しいと頼まれたと分かって、口を開いて固まった。
「何で俺がガキ連れて!?」
「それ、ウィルにだけは言われたくないわ」
 マリーがぼそり言ったのは聞こえなかった事にして、フェイスは丁寧に依頼した。
「ホーキンスさんは別の道を行くと言っているし、リサは荷物が多すぎて頼めなかったの。この子達には街で迎えが待っているから、そこまでついていってあげて」
「けどなあ…っ」
 難色を示しているウィルの脇腹を、マイケルが声を上げて走り抜けた。胸の白い小さな鳥が上空を旋回している。待てガキ、と慌てたウィルの背中に、マリーのとどめの一撃が放たれた。
「子供を見捨てるなんてサイテー。ウィルはそんなことする人間じゃないよね?」
 見かけ不良の発達段階にある半青年に、天使の微笑みがどう映ったかはさておき、この世の最も恐ろしい物を見たという顔で、「わあったよ」と、げんなりした声を出してフェイスの前に立った。鼻筋を指で掻き、何か言いたげにしているので不思議だったのだが、
「俺、結構あんたの事好きだった」
 前置きもなくそう言うものだから、言われたフェイスも間を空けてしまう。我返ったウィルは、
「変な意味じゃねーからな!」
 と顔を真っ赤にした。
「俺一応長男だから、なんつーか、姉さんみたいだったって、そういう事だ」
「好きって言えばいいのに」
「違ぇって言ってんだろぉ!?」
 相手が少女だからか、根っこまで悪くなりきれないウィルは、手が出せない。マリーもそれを知ってて茶々を入れる。ふ、とフェイスの顔に笑みが浮かんだ。少なくともここにいる期間、マリーは孤独でなかった。その事に安心した。

 バンッ!

 扉を勢いよく開いて、ホーキンスが飛び出してきた。
「鹿だ! 鹿がいるぞ!」
 杖をついたホーキンスは、それでも普段の倍以上の速さで階段を駆け降り、その足からは想像も出来ぬ力強さで土を踏みだした。
「ごきげんよう、皆さん。そしてさようなら。私は鹿を追います。双眼鏡で確かめましたら、ここより四百ヤード行ったところに、牝鹿がおりました。きっと霧の中で遭遇したあやつに違いありません。逃げるが早いか捉えるが先か。支配人、鍵は確かに返しましたぞ」
 フェイスに鍵を渡し、トランクを携えて、脇目もふらず草を分け入っていった。嬉々として軍歌を歌いながら消えるホーキンスに、ウィルは呆気にとられていたが、
「私達も行きましょう。マイケルが見えなくなっちゃう」
 マリーに袖を取られて、ようやく爪先を動かせた。
「じゃあな」
「さようなら、フェイス」
「ありがとうウィル。元気でね、マリー」
 背の揃わない二人の背中が微笑ましかった。
 残る住人はあと二人だ。うち一人はホーキンスが開け放った扉の内側に、手の平を眩しそうに顔の前にかざして立っていた。階段を降りてくるソラに、フェイスは鏡についてまず尋ねたが、彼にもよく分からないようだった。ソラは草を踏んだが、振り返り、こう言った。
「不思議ですね。僕は一人で暮らしてたのに、誰かと一緒だった気がしている。それはとても大切な人だったような気分がするんです」
 野の道はとても長く、険しい傾斜の続く岩場も途中にある。希望に胸が弾む、真っさらなこの朝も、きっと長くは続かない。西の方角から流れてきた風が、急かすように草を唱わせた。
「…あなたは残るのですね」
「ええ」
 それが務めだ。集合体の個々を失っても、家が消えるわけではない。手入れする者がいなくなり、放置されれば、瞬く間に廃墟と化すだろう。
「さようなら、どうか迷わずに」
 ソラは何かを口にしかけたが、指輪をはめた手を下げた。
「さようなら、フェイスさん」


 彼等の背中がやがて葦のように細くなり、ついには消失したのを見定めると、フェイスは組んだ指を解き、もと在る場所に身を返した。開放した扉から、薄闇の籠もったホールに陽(ひ)が貫通し、透明な空気の流れに埃が漂っていた。主を失ったドアと、自身のそれ。そのどれでもない一つ所に、フェイスは額を向けて立つ。
「…聞いていて?」
 手には八つの鍵がある。入口の扉を完全に閉めるには、あと一つが足りない。

 ―管理人の癖に覚えてないのかよ。

 本当にそうだ。何故、思い出せないのだろう。ここで初めて言葉を交わしたのは彼女だったはずだ。緩く波打った長い髪を肩にかけ、手で顔を覆って泣いていた。フェイスは慰め、怖い物は何もないとその肩を抱いた。

(本当に、本当ね?)
(本当よ。でも、)

 キィ。

 指一本差し入れられる幅の、縦に長い空間が開いた。物音がしたのはそれだけで、ドアがそれ以上動く気配はない。ノブに手をかけ開こうとした。その時、



 一斉に、空へ飛び立つ羽音。


 ―あの鳥は何ていうの。

  少年が嬉しそうに頬を上気させる。

 ―ちょっとアンタ、私の荷物踏んづけないでよ。


  チューインガムを丸めて包んだゴミが、揺れるたびに、右へ、左へ転がり、イヤホンを耳にした少年が蹴り飛ばした。アイマスクをした銀の髪の青年が眠っている。縫いぐるみを抱きながら俯いている少女。


 ―…まで、あと何キロぐらいなの。

  前方で婦人が腰を上げた。

 ―こう、霧ばっかりじゃ、看板も見えやしない。





 何もない。椅子も机も、眠る為の寝台も、何一つ。
 厚塗りの白い塗装で六面を塗った箱の真向かいに、施錠した窓が壁をくり抜いていた。木枠の陰が床に十字を作り、その一辺はドアに立ちつくす私を、縦に斬り付けた。
 肩が震える。どうしてここは、こんなに冷えるの。
「―用意は出来た?」
 背後で「彼女」はそう言った。私は知っている、この声を。ここに辿り着いた誰よりも先に、「彼女」に会った。初めて目にしたその姿は、南欧の教会で見かけた修道女のようだった。高価でも華美でもない粗末な衣服。だがそれは仕事に的確だった。
「泣かないで。」

 その声。その声だ。私を憐れんだのは。彼女は、『フェイス』は言った。


―ここが貴方の部屋よ。大丈夫、怖い物は何もない。―


 私は恐ろしい怪物から逃れるように、空っぽの部屋の隣室に駆け寄り、何本もの中から自分の部屋の鍵を掴んで鍵穴に差し込んだ。他の鍵と鏡が手から零れ落ち、床に散らばったが、拾い上げる余裕などなかった。ガチガチと噛み合わない音を立てたドアが開いたと同時、中に走り込もうとした私は、しかし目の前の物が信じられず声を失った。壁が、入口を完全に塞いでいた。
 私は振り返った。彼女が爪先を一歩踏み出すごとに、恐怖で体が石になっていく。燃え上がるような赤い髪。汚れの目立たない服。紐を結んだブーツ。手にひっそりと握られた、私達の物とは色形が異なる白銀の鍵。
 ああ、そうだ。彼女は、それを使って、一部屋ずつ中を見せてくれたではないか。束にした銅の鍵の一本を、私に貸し与える前に。
 落ちた鏡に、彼女と同じ格好の私が映っていた。乾ききった涙が顔にこびり付いていた。


 霧が還ってくる。


 私は体の痛みを思い出した。皮膚を啄んだそれは、やがて全身の端々までを蝕み始めた。切った額から流れる血が頬を伝い顎を汚す。ガソリンと青草の匂い。浅い呼吸を辛うじて維持していても、微睡むように視界が遠ざかる。寒い。ここはとても、寒いのよ。
 彼女は緩やかに時の終わりを告げた。時間よ、と。震え続ける私の肩を抱き、静かな声で耳朶に囁いた。
「後ろを振り返らないで。真っ直ぐに歩くの」

 


 見えない。

 手探りに。

 破裂間際の鼓動が。

 どくどくと。

 から回る指。

 空を掻き。

 藻掻くように。

 光もなく。

 闇もない。

 消える。

 溶けていく。

 私という細胞が。

 飲み込まれる。

 白く気怠い、




 濁野(だくや)の園 ― 。
 





 強烈な閃光に胸を貫かれ、息が止まった。死んだのだと思った。もはや先に進めず、脱力した膝ががくりと折れた。意識が飛ぶのに本能的に抗い、現にしがみつこうと、必死に目をしばたかせた。
 アスファルト、木の茂み、ランプを回転させる何台もの車。濡れたレインコートを着て、額を拭う人達。
「― ― ―。」
 這いつくばりながら何を叫んだのか、自分自身の耳には聞こえない。コートを着た一人が、不可思議な顔付きで体を捻るなり、絶望的な目で結んでいた唇を解いて瞳を大きく見開いた。手にした器機に何かを叫び、こちらへ走り寄る後方に、損壊したガードレールの下に向かって声を張り上げる警官がいた。レインコートの色が段々と近くなり、泥の付いた裾が数歩の所で翻る。サイレンの音が急速に強さを増し、木の葉を振り落とす森に響き渡った。重力に圧迫され、私の視界は崩れ落ちる。
 『こちらA班、ハイウェイ217号線にて女性を発見。早く、タンカを―!』







V


「イクスキューズミー」
 耳元に、白髪の女性が声を張った。はっとして目を上げると、『ここ、よろしいかしら』と聞きたそうな顔で、隣の空いている席を指さした。
「どうぞ」
 座るのに邪魔になっていた鞄を引き寄せると、女性は大きな体を満足そうに椅子に沈めた。
 今朝の病院は、土曜の午前という事あって満杯だ。席はおろか、廊下で何十分も立って待つ患者もいる。―自分も予約時間より三十分超待たされているのだから、飛び込みとなると半日かかるかもしれない。苛々とライターをいじくっていた長髪の若者が、ナースに注意され、ゴミ箱を蹴るのが見えた。
 椅子を並べた小ホールの天井一角で、テレビが点けっぱなしになっている。ジャム瓶に頭を突っ込んだ熊のキャラクターが、中身を舐め尽くして目を丸くする。スプーンで瓶をキンキン叩き、持ち上げようとするが抜けない。アニメ声の笑い声がぶつりと切れ、マイクを手にしたリポーターが大手鉄鋼メーカー本社を背に、価格競争から撤退を表明したとの内容を伝える画面が映し出された。誰かがリモコンを押したのだろう。
 診療室の一つが開いた。ナースに呼ばれ、私は立ち上がった。
「こんにちは、調子はどうですか」
 初老のドクターは、来診した患者に対し、必ず挨拶するよう心がけている。紹介を受けてからずっと担当を変えずにきたのも、彼のそういった心配りが信頼足るものと思えたからだ。
「随分良くなりましたわ。ここにも一人で来れるようになりました」
 そうですか、と頷いた医師は、私の手にしている物に目をとめた。ふむ、と神妙に目を細めて指を組む。
「それを読めるようになったということは、『良くなった』という言葉を信じていいという事なのですかな」
 穏やかであっても慎重を期した声だった。物事を図るべき客観的な姿勢を崩さない、それも彼の仕事には必要な資質である。
「もし、まだフラッシュバックが起こるようなら」
「大丈夫です」
 ドクターの忠告を遮り、私は新聞の一面記事に手で触れた。見出しの下に写真が載せられている。日付は十一月十二日。今日より約一年前のを、古新聞を溜め込んでいた知人に譲ってもらっていた。
「教えて頂きたいんです」
 ドクターは水色の瞳で私の顔を眺め、一息付くと、机にうず高く積もった本のモニュメントを倒れぬよう掻き分け、クリップで挟んだ書類の束を取り出した。
「分かりました。ですが、万一病状が再発する危険が出ればそこで止めます。よろしいですな」
「えぇ、結構です」
 私は新聞を広げ、記事を見つめた。


『十一月十日 死傷者三十六人のバス落下事故。』



「内容はそこに書いてある通りですが、生存者の方々に聞いた話から新たに分かった事が幾つかあります。まず一つ、当時の運転手が事故の前日酒を飲んでいたという証言を受け、酒気帯びもしくは居眠りと思われていましたが、運転席後部に座っていた乗客の証言によると、ハンドルを手にし、しっかり前方を向いていたとのことです。事故発生時、濃霧注意報が出されていた気象条件からも、カーブでハンドルを切り損ねたというのが専らの見解としてまとまりつつありましたが、捜査の途中、タイヤのスリップした跡が路上で発見されました。バスはそこから道路を外れ、レールに衝突しています。森林に住む動物か何かが飛び出してきた可能性があるとも言われています」
「……」
「バスは横転し、崖を転落。斜面を百メートル以上転がり落ちて止まりました」
 頭蓋の一部が、チリチリと焼け付くように痛んだ。
「…続けてください」
 ドクターは書類を捲った。
「長距離移動バスは、今朝五時半に始発地点であるオーソリー街を発ち、経由ポイントを通った後に山を越え、十時五三分にこの街へ到着する予定でした。一時間ごとに社と無線を取り合い、八時に休憩所で運転手を交替しています。午前九時半、運転手は悪天候の為、到着が遅れる旨を報告し、同時に濃霧発生の警告を受信。しかし到着時刻より約二十分前、バスは無線に応じず、予定を大幅に過ぎてもターミナルに現れませんでした。これにより警察は午前十一時半に通報を受け付けましたが、計測によりますと、この時刻における現場付近の平均視程は、一時八十メートルを下回ったと記録されています。目撃情報もなく、落下地点を発見出来たのが午後二時半。電灯が効かない霧と大雨の中、車体を捜索するのは困難を極め、夜に一旦捜索を中止しました。そして霧が収まるのを待ち、捜索を再開した翌朝七時、」
 ドクターは私と目を合わせた。
「ローズ=クレアさん、あなたが現れた」

(真っ直ぐに歩くの)

「救急車の中で、あなたは何度も呟いていたそうです。真っ直ぐに行け、と。バスは見付かりました。あなたが発見された地点から約百二十メートル下方の雑林に、横倒しになっていた。覚えていますか」

(真っ直ぐに)

「…いいえ」
「中継で死亡者の氏名が放送されていましたが、乗客全ての身元が判明している現時点においても、フェイスという名前の女性は確認されていません」
 医師は至極真面目な顔付きで言った。
「一緒に暮らしていたと言いましたね」
「はい」
「霧に佇む白い家で」
「―はい」
 写真は、もう何度も見て覚えていた。窓ガラスが粉々に砕け散った鉄の塊が無惨にひしゃげ、千切れかけた胴を木の根本に横たえていた。崖は雨で地滑りし安く、僅かの震動も与えられない緊張で空気が張りつめていた。ロープで何重にも固定した車体の周りを、同じくロープを腰にしたレスキュー隊が取り囲んでいる。四角い穴の内側に、赤い腕のようなものが覗いていた。
 ドクターは机の上から別の紙と地図を取り出してきた。
「山麓一帯を占める原生林は国有で、低地には柵が施されています。民家は殆ど無く、点在するそれも山小屋だけだそうです」
「先生は―、私が夢を見ていたと思われますか」
 私は、淡々として事実を告げるドクターを仰いだ。
「頭を打って気絶していた間、知らない家で、フェイスという女性と暮らしていた夢を見ていたと。確かに私には、そのような名前の知人はおりません。でも、」
 病院のベッドで目覚めた時の、あの気分をどう表現したらいいだろうか。生命を奪われなかった安堵感―にも関わらず、理由の分からない喪失感に呆然とした。
「そこにいたのは、彼女だけではなかったのです」
 室内がシンと静まりかえった。
 院内のある種の閉塞感に、胸がつかえたように苦しくなるのに比べ、窓の向こうは陽が柔らかく照りつけ、子供の声が近くなる。少女の軽やかな、遊ぶような声。私の心を撫ぜて、風の中を過ぎていく。
「事故に遭った瞬間、私は死を恐れました。やり残した事、やろうとしてやらずにいた事を後悔しました。白い家でフェイスと名乗った女性は、死の淵に迷い込んだ私を受け入れてくれた。安全だったのです。彼女の存在を封じ込め、成り代わりたいと熱望するほどに。私は、そこでの長い時間を、家の主として過ごしました。訪れた者達を迎え入れ、管理者たる故に彼等を見送りました。しかし、私もまた家を出なければなりませんでした。私は鍵を持っておりませんでした。個別の鍵ではありません。管理者ならば持っていなければならない、唯一無二の鍵です。彼女から奪ったのか、自分で作り直したのか、私がそこでの意識を認識した時には、部屋の鍵束は私の手にありました。そのようなものがなくとも、彼女は何時でも自由に、どの部屋も開閉出来たでしょう。でも、そうはしなかった。必要なかったのです。彼女はいずれ、時が来ることを知っていたのですから。そうして、その時は、真似事をしていた私にも等しく及びました。『全てが去らねばならない。』と、彼女が私に言った言葉の通りに。先生、私は、ただ死にたくない一心で、虚構の世界を作り上げてしまったのでしょうか。誰かと、ええ―、誰かと、住んでいたあの家は、本当は夢だったのでしょうか」
「ミス・ローズ」
 子供の声が消えると、ドクターは書類から目を上げ、私の前に座り直した。
「夢を嘘と決めつける事は出来ません」
「でも、あり得ません。それは先生の仰った通りではないのですか」
 私の出現は、絶望的かと思われたあの事故に劇的な展開をもたらしたという。私の譫言がバスの発見に繋がり、生存者を救出するのに役立ったのだと、搬送された病院の医師に聞かされた。意識を失っていた十日の間、メディアは生存者が次々と救急車に運び入れられる模様を「奇跡の生還」と、連日のように報道していたのだとも。
 第一生還者だった私は、容態が回復すると、警察や記者の質問攻めに悩まされた。事故直前の車内の様子、道路の状態に、何か変わった事がなかったか、道路に自力で這い登ってくるまでの間、どこにいたのか。私は、バスの中としてはありふれた光景、車体が急激に揺さぶられた事を朧に答えたが、道路に帰ってきたまでの証言は、彼等を一様に白けさせるしかなかった。

 ―私は真っ直ぐに歩いてきたのです。

 レスキュー隊は、「崖を真っ直ぐに登ってきた」と解釈し、事実バスはそのようにして発見された。だが私は首を振るしかない。私は霧の中を、平らな道を歩くように、『水平に移動し』て歩いてきた。崖を手づかみで登ってきたのならば、体がもっと汚れていたはずだと主張したが、警察は病院で消毒されたのだろうと、苦笑いして手帳を引っ込めた。ショックで記憶が混乱している。彼等の一瞥にはそんな含みがあった。
「あなたが着ていた衣類を写真に撮っておけば、もっと確かな裏付けがとれたでしょうね」
 ドクターの意見は尤もだったが、生憎、それは病院のランドリーで洗濯済みだった。
「他の生存者の方々は何と」
 尋ねると、ドクターは首を振った。
「特別な証言はありません。助け出されるまで寒さに震えていたと仰っているのが大方です」
 私は口を噤んだ。それが平常なのだと、自分でも分かっていた。静かさが際立つ部屋で、新聞を握る手がひんやり冷たくなっていく。
 こほん、と咳したドクターは、逡巡するような目を暫く壁に向けていたが、患者にさじを投げたわけでなかった。
「無意識、という概念について、多くの研究者が論文を発表していますが、夢分析という分野において先進的に活躍したフロイトとユングの名はご存じであるかと思います。似たものと誤解されがちですが、二人の説は全く異なる。前者は、夢の意味を性的欲動で捉えています。成長過程での経験が、無意識下に現れるというものです。一例では、自己確立期に自分では回避しようのない経験をした人間が、その記憶をなかったものにしようと、意識の奥深くに封印する事が挙げられます。だが経験はすでに起きてしまった現象であり、無いものにする事は出来ない。抑圧された記憶が、本人が意識せずとも様々な感情と経験に結びつき、イメージ化される。ただし、患者に対し誘導的であるとの批判もされており、一概に型に当てはめることは出来ませんが。もしあなたに、あの事故より以前に、何か受けとめ難い経験をされた事があるようであれば、この説に添って考えられるかもしれません」
 私が首を振ったのに頷いて、「後者は」と彼は続けた。
「集合無意識というものです」
「集合…」
「普遍的無意識とも言い換えられます。意識は個人の経験に限定されず、全ての人間に共通する元型を持っているという説です。神話と伝承に共通のイメージを見出した内容ですが、その存在の科学的証明はされておらず、主観的な説ではあります。ですが、」
 ドクターは皺混じりの手で新聞を指さした。
「事故に遭ったバスには大勢の人が乗っておられました。性別も異なり、年齢も様々、バスに乗られた理由も違ったはずです。ただ一つ、目的地に向かう意識は共通していたでしょう。そのような中で等しく悲劇に見舞われた時、彼等は誰もが間違いなく、死という普遍を恐れたはずです。もし意識を物体として捉えられるとするならば、それはこのような状態に例える事も出来るのではないでしょうか」
 私は、ドクターが鉛筆で紙に書くのを黙って見ていた。円が円と一部を重ね、その円はまた他の円と重なり、花弁が寄り集まった花のような、輪の連鎖となる。彼はその中心に斜線を引き、余白に『共通項"e"』と書き加えた。
「あなたが見たのは、この箇所かもしれません」
 トンと叩いた場所に、鉛粉が散った。


 診療を終え、病院を出ようとした足下に、黄色のテニスボールが転がってきた。階段を弾んで落ちていきそうになるのを、身を屈めて拾い上げた。黒い半袖シャツに、腰にベルトを巻いた少年―青年かもしれない―が走ってきた。ゴミ箱を蹴って叱りつけられていたあの少年だった。
「サンキュ! 悪ぃな!」
 少年はボールを受け取り、左手の中で遊ばせた。
「リハビリ中なんだ」
 にかっと笑いかけられたので、私も軽く会釈し、階段を降りようとした。

(―った。)

 少年を振り返る。彼はまだそこにいた。私と目が合い、ボールを握り返した。
「何」
(俺、何かしたか?)と、茶色の目が語っていた。
「―いえ」
 胸に込み上げたものは、背景の白い壁に吸い込まれた。
「リハビリ、頑張って下さい」
「あ、ああ。…っけね、時間じゃねーか」
 少年は、慌てて中に引き返していった。


 舗道は木枯らしに吹き集められた葉によって、点描のような模様を掻き混ぜている。風が吹くと葉は翻り、また別の模様が描かれる。歩くとパキリと小気味良く、しゃりとした感触にマフラーを巻き直した。空は薄鼠色に晴れ、信号待ちの車が道を埋めている。リュックサックを肩に掛けた子供達が喋りながら通り過ぎ、自転車のベルが澄んだ空気に響いた。
 途中、脇道から公園に侵入し、植えられている花や木に慰められて歩いた。芝生にバドミントンをする女の子達がいた。ちゃんとしたルートを辿るなら、一周するのに一時間はかかる。
 前方に人集りがあった。花壇の赤いポピーと対照を成すコントラストに気をとられ、そこが共同墓地の一角であるのを遅れて思い出した。近づくにつれ、横に並んだ十字の輪郭が、芝生の緑にくっきりと浮かび上がってくる。ハンカチを口元にあてた女性と伴侶らしい男が去っていく。一人、また一人と去り、墓の前には最後、男が残った。
 彼は花束を手に立っていた。私の足は、動く気配のないその姿に引き止められた。濃紺のチェック柄のスーツを着た青年だった。彼の髪色は、今時点の上空を覆う色に似ている。吹きさらされた草が揺れる。
 突き刺さる視線に気付き、彼は振り返った。
「あなたも、姉の?」
 言われて自分の身なりを思い出した。ピンクのセーターを着込んでいるが、膝下まで丈のあるコートと靴の色は黒だ。髪の色を含め、私は弔いと間違えられて然りの装いをしていた。
 いえ、と答えると、青年は小さく謝罪した。
「すみません。姉がどういった人と一緒だったのか僕は知らなくて。別に暮らしていたので」
 彼は悲しみを瞳に滲ませたが、どうしてか、私の手元に視線を投じて息を呑んだ。
「それはバスの記事ではないですか」
「―そうですが」
「見覚えがあったのです。僕はそれに乗っていたので、事故の記事を何度も読んでいて」
「私もです」
 青年は弾かれたように顔を上げ、私の顔を凝視した。私は服の袖を肘まで捲りあげた。裂傷した傷跡が消えずに残っていた。
 思いがけず遭遇した同胞への気の赦し、共有点を見出した安心感、避けられなかった不遇の過去が青年の目に溢れ、混濁する。それは一度瞬きしても、こぼれ落ちはしなかった。
「僕は病院の姉を見舞う為に乗っていました。姉は幼い頃に難病にかかり、もう長い間、生まれ育ったこの街の医療機関で治療していました。容態が良くないから来るようにと連絡を受けたので、急いで駆けつけるつもりでした。だけどあの事故が起こって―僕は何週間も目が覚めず、起きたその日のうちに、姉の死亡を告げられました。最期ぐらい傍にいてあげたかった。それが唯一の心残りです」
 青年は百合の花束を、すでに小高い山をなした花々の上に、優しい手付きで置いた。
「僕とは双子でした」
 石に刻まれた彼女の名は花を抱き、永久(とわ)の眠りに安らいでいた。
 女性に付き添われた老婦人が、舗道に沿った小道から青年を呼んだ。応えた青年は墓の前で目を閉じ、祈りを呟いた。
「話が出来なくて残念ですが、もう行かなければなりません。今日中にこの街を去らねばならないのです」
 青年は自分の指から銀細工の小さな物を抜き取り、私の手の平に置いた。二頭の獅子を彫った指輪に宝石が填められていた。こんな高価な物を受け取るわけにはいかない。狼狽し、彼の姉の遺品だと聞いて、なお押し返そうとした私に、彼はどこか懐かしい微笑みを浮かべた。
「どうぞ持っていて下さい。あなたの道中が安全であるように」
 青年の指が手の平を滑った。


 墓地を抜け、空気の良い公園から出ると、騒々しい街のただ中に入る。私は時間が来るのを待っている。遠方よりの終着地であるここには数分間隔でバスが押し寄せ、帰省の客を矢継ぎ早に攫っていく。列を作り並ぶ人々を飲み込み吐き出す乗り物に、私も身を預けようとしている。
 バスが来た。時刻が三時過ぎという半端もあって乗客は少ない。席に着き、後方に流れ出す景色を横顔で眺めた。信号が点滅する間に、男の子が走って渡り終えた。少年はビル群を飛び越える鳥の編隊を追っているように見えた。動く陰は夥しく、彼の姿も他のそれに飲み込まれて消えた。
 喧噪が少しずつ後退し、私は新聞を折り曲げて鞄に挟み入れ、鏡を取り出した。鏡面は古ぼけてやや曇っているが、一昨年亡くなった祖母に貰った大事な物だ。薄茶の瞳、真っ黒な髪を肩で切り揃えた私がその中に映っている。
 震動に揺られ、私は目を伏せた。頬を照りつける光が、手の平で包み込まれるように温かだった。
 バスは徐々に加速し、街並を小さくしていく。 

 細く長い、座標のない道を行く。それはまるで、霧の中を歩くようなものだ。
 ―だが、いつかは辿り着く。冴えた空気に佇む白い家。守人の住まう狭間の刻(とき)へ。




(忘れないでね。)

街が遠ざかる。


(忘れないで。)







- Fin. -



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あとがき
 『中央分離帯の上』二号に参加させて頂きました作品です。テーマは"異国"でしたが、 書き進めるうちに、どこでもない場所の風景になってきました。掠っていたのかどうか…汗)
 頂いたイメージに、『シャイニング』のあの怪しいホテル、『エミリー・ローズ』 オープニングの、主人公が白い霧に飲み込まれ立っている映像があったりします。ローズという名前も 霧=(イコール)で即決まり。どちらもホラーなので、苦手な方はご注意を。こうして見てみると、 自分の書くものには、映画の影響が多分に含まれている気がします。
 このお話自体は、フェイスという名前を使った物語 を書きたいと思った二年ほど前から、漠然と構想だけ出来上がっていました。挿絵だけに 興味があった英語の授業…今では単語を見るだけでもちんぷんかんぶんですが、機会を頂いて、 ようやく陽の目をみることが出来ました。読んで下さった方へ。ここまでお付き合い下さり、本当にありがとうございました。