肩どまりの蝶



 初めて彼女を見た時の印象を、なんと表そうか。よれよれのTシャツにジーンズ、不揃いな長い黒髪を、垂れるままにしていた。長さがてんでバラバラだから、自分で切ったんだろう。ブルーの眼の白いところは、やや血走っており、男なのか女なのか、即座に分別するに難しい―つまりはそれほどに小汚かった。
「エドラ・ハムのライブはここ?」
くしゃくしゃに丸めてジーンズのポケットに突っ込んでいたチケットを取り出し、彼女は私に詰め寄った。
「券はあるのよ、入れて」
年はおそらく、二十二か三歳といったところ。
未成年相手ならば即座にお断りだが、生憎、彼女はそれなりに成人した風貌を持ち合わせていた。それでも私からしてみれば、まだまだ小娘程度でしかなかったが。
「ディー、入れてやんなよ」
奥で飲んでいた常連が、冷やかし半分にこちらを向き、ジョッキを高く掲げた。
「レディーがお願いしてるんだからさ、おっと、マドモワゼルと呼ぶべきかな」
そう言って、ゲラゲラ笑う。女の白い頬が朱に染まった。薔薇が咲き誇ったような、と言いたいところだが、彼女のぎらついた目つきからして、それは明らかに怒りから派生したものだった。
私は溜息をついた。
エドラ・ハムは、サックスで一躍音楽業界のトップに君臨した、超に超が付く大物だ。それが何故、こんな侘びしい喫茶に出演することになったのか、理由は私の父にあるらしかった。エドラ・ハムから、直々に電話を受けた時、私はひたすら困惑するしかなかった。電話の向こうの相手は、『あなたの父親との約束でね』と、日時を勝手に指定してきた。ちょっと待ってくれ、そんなこと言われても、私の店じゃそんなに多くの客は入れられない、と私は慌てたのだが、ギャラリーなんざ、当日いる分でいいと、適当なことを返された。
「…チケットは、二十しか作らなかったはずだ。しかも、身内だけにしかエドラのことは言っていない。お前さん、どこでそれを手に入れた」
「今朝方、駅で待ってたら、東行きの切符とこれを交換しないかって声をかけられたのよ。腕に心臓を撃たれた鳥の入れ墨を彫った、やせ気味の男の人に」
「おいおい」
常連だという男は、少し焦った様子で身を起こした。
「そりゃ、アビーじゃねぇのか。今日も来てないし。そういや金を借りたのが返せない云々て言ってたな。やばいぜ」
「少しは黙ってろ!!」
頭が痛くなってきて、私は怒鳴った。そして、もう一度彼女に向き直り、やや威圧的な態度を装った。
「お前さん、今のでも分かるだろうが、ここはこういう連中が集まるところだ。嬢ちゃん、なりは巷の普通人と同じだが、ここには似合わん。それはこっちが買い上げるから、さっさと帰りな」
「嫌」
彼女は唇を噛みしめて言った。
「エドラの演奏を聴くまでは、帰らない」
見た目に合わず、頑固者らしい。ああ、そうかい。私は奥の扉を指さした。
「席はあっちだ、ついてきな」
女はぱっと顔を明るくして、悪びれない無邪気さで、私に付いてきた。―危ないとは思わないのか。やっぱり、これはお嬢ちゃんだ。私は扉を開いた。女がそわそわした様子で、中を覗き込む。
「わっ!!」
彼女の背中を強く押し、外へ放った。女はよろけて膝をついた。ゴミ収集場に近い、それは裏戸だった。閉める間際に紙幣を一枚落としてやった。騙されたと気付いた女は、素速く腰を上げたが、私が閉める方が早かった。
「開けて!開けてってば!!」
両の拳で叩いていたが、今度は足で蹴ってくる。もう少しドアの木板が薄かったら破られたであろう、もの凄い蹴り方だ。
「…クレイジーだ」
茶々を入れていた常連も、さすがに呆れかえっている。
私はふうっと息を付き、エドラが来るという夕刻の時間を待った。





開演は、とても静かなものだった。普段、野卑な言葉でなじり合うごろつき連中は、演奏の後、付き合いで買ったにすぎない一枚いくらもしないチケットに、感謝のキスをしたに違いない。
エドラはタクシーで訪れた。いつの間にか雨が降っていたらしく、黒のコートの肩が水で濡れていた。彼は楽器を入れたケースと、ファイルに入れた楽譜を持っていた。
幾分皺の目立つ白い肌に、白髪の交じった頭髪。戸口でひとまず帽子を取って、彼は礼を表した。元をとるためにとりあえず来ていた者も、エドラの名を知っていた者も、それだけで押し黙った。
彼を中に入れる際、さっきの女が飛び込んできやしないか冷や汗したが、見た限りではいなかった。
私は今回の経緯を、詳しく知りたかったが、彼は多くを語らなかった。それどころか、店の内部を見渡して、いつかもう一度、ここで演奏させてくれないかとまで依頼してきた。大した儲けになるはずもなく、旅費を考えたら赤字のはずだ。彼は、それでもいいと言った。
私は、今はほとんど使用されていない部屋の鍵を開けた。掃除用具入れにしか見えない、粗末な木の扉だった。待っていましたとばかりに、顔見知りがぞろぞろと、―東洋の言い方で表現するなら―数珠繋がりにそこに入っていった。

木張りのステージの照明以外、電気を落とした部屋で、彼の指は動いた。その、神がかりな動作、骨にまで染みついた滑らかな音色。サックスという楽器は、これほどまでに美しい音を出せるものなのか。指の下で輝く金に、誰もが魅入った。
彼の吐き出す長い息を感じながら、私は昔家に置いてあったピアノを思い出していた。引っ越して売り払う際、私はどうしてそれを売らなければならないのか、という事よりも、ただ、置いて行かねばならない事、自分のものが取り払われることを悲しんでいた。その過去を懐かしがり、自分の指を演奏に合わせて躍らすには、私は弾くことから長く離れすぎていた。

彼の二奏目が終わろうとした頃、店の戸が開く音がした。物音を立てないよう、ステージのある部屋を出ると、頭をハンカチで拭いている、ブラックスーツ姿の年かさな女がいた。
「エレン、遅かったな」
「雨が降ったんで、ヒールが何度も道に取られちゃって。途中で後ろが折れちゃったもんだから、買い物して代えてきたの―まだ、やってる?」
頷くと、エレンは口元を綻ばせた。喫茶の姉女房的存在の彼女は、エドラのファンでもあった。本当にこんなオンボロでやるの、と私と同じ疑問を持っていたが、真実だと分かるやいなや、連中に他言無用の脅しをかけた。
踵の高いヒールを鳴らし、エレンは早々に会場に行こうとしたが、その前に私の方を振り返った。
「そういえば、通りの横に、濡れ鼠がいるわよ」
「濡れ鼠?」
「Tシャツ一枚で、震えちゃってたわ。ゴミ箱の隣に座り込んでるもんだから、ストリートかとも思ったんだけど」
「…」
あの娘っ子、まだいるのか。
「死人が出ちゃ迷惑だわ、どうにかして」
「どうにかって、なぁ」
「じゃあね」
会話する分、時間が無駄だと言わんばかりに、中へ入っていってしまう。考えあぐねて、私は傘を二本取り外に出た。





彼女はそこにいた。野菜の切れ端や、紙屑なんかを入れた袋が、収集日でもないのにぎゅうぎゅう詰め込まれた鉄の箱。その側面に背をもたれて、両肩を抱くようにして水溜まりに浸かっていた。
サアサアと、細切れの透明な線が落ちる。黒い髪がべったりと頬に張り付いて、青白いまでに、彼女の頬は温度を失っていた。私はすぐには傘を渡さず、もう一本の傘を差したまま、無表情にそれを眺めた。この天気とは不釣り合いな、晴れた空の色をした目が、こちらを向いた。少し驚いたように瞼の縁を広げたが、怖じ気づいた表情ではなかった。
「エドラの音を聴かせて」
同じ事を言う。私は返した。
「戸は開いていたはずだ。彼が入ってきた時、無理にでも体をねじ込めば良かったんだ。どうしてしなかった」
自分で追い出しておいて何だが、彼女はそこでようやく自分の非を見付けたとでもいうように、目を伏せた。
「彼は恩人なのよ…こんな姿で見られたくないわ」
語尾が消えてしまいそうな、小さな声でそう言った。これじゃあアイドルを崇め立てる、ただの追っかけだ。しかし弱々しく見えたのは一瞬で、彼女はすぐに真っ直ぐ顔を上げた。
「お願い、音だけでいいの。部屋には入らなくてもいい。音だけは、どうか聴かせて」
浮浪者が小金を求めるよりも、きっぱりとした意志を感じさせる目だった。彼女は立ち上がろうとした。その時。

防音を施してある部屋から、一際大きな地響きがした。何人もの人間が、足で床を叩いているのだ。
「そろそろ終わるな」
「そんな―」
女の顔がひしゃげた。まずい。声まで出されて泣かれたら、人の目が集まる。エレンを怒らすには、今月はまだ金が足りない。
「待て、泣くな。アンコールくらいは聴かせてやる。それでいいな」
そう言ってやる間も、女は幽霊のようにふらりと立ち上がり、喫茶の扉の方へ歩こうとする。私は舌打ちした。傘は出番を失った。大人しく帰るというなら、一本ぐらいくれてやってもよかったのに。
「そっちじゃない、中からさっきの扉開いてやるから、そこから入れ。それと」
なるべく見ないように言う。
「着替えをしろ。下着が見えちまってる」
女は瞬きして、自分の透けた胸元を見た。
「隠してろ」
「―ありがとう」
女は、少女のように微笑んだ。





それはもう最後の曲だったが、十五分という時間を忘れさせる、密な一時だった。
カウンターの奥の調理室の、冷たいタイルに、彼女は耳を宛っていた。エドラが演奏している部屋と調理室は、コンクリートで仕切って繋がっている。ステージの控えの扉から行き来出来るようになっているのだが、そちらは今鍵が掛かっている。パーティーも出来るようにと、以前の家主が改造したのらしい。ここからは、多少の音を拾うことが出来る。
煙草を吹かしながら、私は女と離れて、丸椅子に座っている。とりあえずトイレで着替えさせたが、男物のシャツが女性に合うわけもなく、あまった裾を結んでおくように言った。
女は目を閉じて、彼の演奏を聴いている。時折吐息のような細い旋律を、曲に合わせて呟いているようだった。拍手が鳴った。
「…終わっちゃった」
泣き顔のような、曖昧に笑った顔を、彼女は私に向けた。
「ごめんなさい。演奏、ちゃんと聴きたかったでしょうに」
彼女は、レジの金を盗まぬよう、私が彼女を見張っているとでも思ったらしい。事実、あの素晴らしい音色の中になら、何時間でも晒されていたかったが、私がそうしなかったのは別に理由があった。だが、私はそれを言わない。
「エドラの音、変わってなかったわ。でも生で聴いたのは初めて」
彼女は嬉しそうに言った。
「知り合いか」
「―ううん、昔一度、聴いたことがあるだけ」
心地よさそうに、彼女は再度耳を宛った。
「彼の曲がとても好き。駅で交換の話を聞いた時は、奇跡だと思った」
「偽物かもしれないだろうが」
「そうね、でも、それでも良かった。券に彼の名があるのを見た時、他のことは考えられなかった。本当は行かなきゃならなかったのに」
熱狂的も、ここまでくると病気だ。あまり深入りしない方がいいに違いない。女ならなおさらだ。それに、彼女の素振りを見ていると、自分の判断が一つ間違っていたことが分かってくる。これ以上は老いるばかりだろうという、女として一番良いぐらいの、丸みがとれた顔付きをしているのに、彼女から感じるのは、裸足で駆け回る子供のような雰囲気だ。眠り心地で体を丸めているのを見ていると、とみにそう思う。ステンレス台の上に、素足でよじ登る女など、見たことがない。
「ディー!エドラが帰られるわよ、どこにいるの」
エレンが呼んでいる。私は椅子から立ち上がった。
「ここを動くなよ、絶対にだ。挨拶したら戻ってくるから、そのままでいろ。それとも、お前も彼に会っていくか」
彼女は首を振った。それ以上は、私も言わなかった。

「ディー、何やってたの」
「腹が痛くてな」
さも今までトイレの中にいましたというように腰を曲げると、エレンは呆れた顔をした。
「申し訳ない、全部聴けなくて」
「滅相もない。突然やって来たのはこちらだ。何せ興奮していたからね」
エドラはサングラスを付けている。演奏中もかけたままだった。彼のよく分からない物言いに、私は口を挟もうとしたのだが、
「お願いです!サイン下さい」
「俺、俺も!!」
「いい加減にしないかお前達!!」
野次馬を引き離しつつ、私はタクシーを呼ぼうと電話に手を伸ばした。だがエドラはそれを辞退した。
「自分で適当に帰ります」
「でも、顔が」
有名人がそこらを歩いていたら、ひどいことになるんじゃないだろうか。エドラは、「なんの」と、人の良い笑みを浮かべた。
「雨が降っているし、傘を差せば分からない。人の顔をじろじろ見て歩けるほど、みんな器用じゃないだろうしね」
「そうですか。では、お気を付けて」
上手い繋ぎを思いつくことが出来ず、私は場面に沿った最低限の言葉で見送る。
「あぁ、そうだ」
エドラは傘を差そうとした手を止め、持っていた譜面の一つを私に差し出した。
「これは、あなたにだ」
「譜面を?ご冗談を。私はサックスなど触れたこともありません」
「いや、これはピアノ用です」
それを聞いた私の顔は、どんな類のものだっただろう。
エドラは私の肩を叩き、「また、来ます」と言って道を歩いていった。
夜が更けるのは早い。夏ならば、この時刻も難なく往路をまわれるだろうが、秋口のこの季節には、見れば宵闇が掛かっている。家に帰るのが面倒で、飲んで明かしたがる常連客も、今日という日ばかりはいい夢を見たいらしい。エドラが去ると、皆それぞれに帰っていった。
メニューのメモをピンで差してあるコルク板も、今日はもう役目なしだ。外そうとしたところで、誰かがいる気配を感じた。ぶかぶかの衣類を纏った、あの女だった。
いや、もう女と言うのはよそう。そう呼ぶには、こいつはあまりに色気がなさすぎる。
「また来るのね」
「聞いていたのか」
彼女が出てきたのは、さっき開いて、鍵を閉め忘れたゴミ箱の方の出入り口だった。
「ごめんなさい。また、お願いするわ。あの人が来たら、また聴きたいの」
「好きにしろ」
「それまで、ここにいさせて」
「…あ?」
コルク板を台ごと持ち上げた自分の手が、にわかに止まった。いさせてって、おいおい。
「俺は飲み屋をしているのであって、宿業はやってねぇ」
「そんなの見れば分かる。でも、他に行く当てがないの。もう一度エドラの演奏を聴けたら、出ていくから。何でもやるわ、料理でも、掃除でも」
「『何でも』なんて、若い女が軽く言うもんじゃない」
「じゃぁ言わない。料理と掃除、するからお願い」
「あのなぁ…」
彼女の目は真剣その物だった。そして私は、真面目なものが、しごく苦手だった。
「いいじゃない」
そんな勝手を言う奴は誰だと思いきや、
「お前まだいたのか」
エレンが、後ろに立っていた。
「私で終わりよ。…さっきの濡れ鼠ちゃん、やっぱり拾ったのね」
「拾ってない、仕方なくだ」
「別にいいけど、店の出資金の一部、私が出しているの忘れないでね。あなた名前は」
「ノーラです」
話の方向に危険を感じ、私は言った。
「駄目だ…!駄目だぞ、エレン。いくら俺がお前に金を借りていても、こいつは関係ない。きっと親御さんだって今頃探している」
ノーラは、にっこりと場違いに微笑んだ。
「それは大丈夫です、私、親いませんから」
私はサーッと青ざめた。
「あらあら、可哀想に。それじゃあ、働かないと大変ね。親父一人が切り盛りする店なんて、今時流行らないわ、そうでしょう、ディー。この子は可愛いから、お客さんの入りも良くなるかも知れないわ」
「おい、待て。俺は曲がりなりにも男だ、中年だ」
「分かってるんじゃない。大丈夫、二十、三十も年の離れた娘に手を出せるほどの甲斐性はないと、私は信じているわ。それとも何、家賃、収めてくれるの。あんな飲んだくればかり集まるようじゃ、先の経営が思い遣られるわ。あの店は怖いっていう評判が立っているから、アルバイトも寄りつきゃしない」
そう言われると、喉を絞められる思いがする。
「…あの、すみませんが」
当の本人が、意を翻したのか、控えめに割って入った。
良かった―…と思いきや、
「私、髪がこんなんですから、さっぱり切ろうと思うんです。スカートも苦手だし、男だと思って、どーんと任せてください」
「あらあら、ノーラは良い子ね」
「はい、お願いします!」
ノーラは、張り切った声で拳を作った。…だから、女は苦手なんだ。





 事実、ノーラはよく働いた。不揃いの髪は首の根本ぐらいでショートカットにし、化粧もしないから、見ようによっては華奢な青年でも通りそうだ。働いてくれた分は、ちゃんと明細と一緒に給与を出している。着ている物を見る限り、装飾品にはまるで興味がないようだった。
「ディー」と、今は私のことをそう呼ぶ。ディノ・バクーニという本名を、客の誰かが教えたらしい。私はといえば、女らしいものは出来る限り傍にしない、というモットーを貫き、彼女のことを短く「ノラ」と呼んでいる。
素晴らしいかな、彼女はスキンヘッドや彫り込みをした際どい男どもとも、よく話した。彼等と話す時のノラには、恐れというものが殆ど感じられない。人と話すのが楽しくてしょうがない、という様子だった。彼女の周囲には、何故かいつも暖かな光が灯っているようで、草木(と言うには、あまりに可愛げがなさすぎる客がほぼ半分だが)の葉が、太陽を決して嫌いにはならないように、彼女の内にある何かが、自然と人を惹きつけた。
毎月、売り上げを見ながら私は唸る。ノラが来る以前より、それは確実に高くなっていた。エレンは手放しで喜んでいる。そして、ほんの少し、ではあるが、私もまた、心が軽くなる思いでいた。今月分の給料は、ちょっと上げてやろう。
私は、屋根裏のノラの部屋の戸を叩いた。
「ノラ、いるかい」
返事がない。鍵は開いている。
「ノラ」
少しだけ戸を開いて、中を覗いた。部屋の真中に、何か薄っぺらい紙を開いて座っている姿があった。窓から差し入った光が、その顔を照らしている。ノラの視線は下向きに注がれたまま、瞬きしていなかった。
「どうした―」
入ろうとして、はっと足を止めた。ノラの目から流れる物が、落ちてその紙を叩いた。
「弟が死んだわ」
彼女が見ていたのは、新聞の記事の一部だった。ここより西方の街にある、私立の病院。患者である十七歳の少年が脱走し、ビルの屋上から飛び降りたというものだった。
「どうして、あの子が死ぬの。あの家に必要じゃないのは私だった。私だったのよ。ねぇ、何故死ぬの、あの子じゃないわ―神様―」
ノラの目が、みるみるうちに涙で溢れていった。嗚咽を交じらせた悲鳴。為す術もなく、私はノラの背をさすってやった。他に出来ることがなかった。





夕食を食べようという誘いに、彼女はようやく頷いた。
調理場に来て手伝おうとしたが、私はそっちで座っていなさいと言った。ノラはそれにも大人しく従った。
彼女はそれから一言も口をきくことなく、私が用意した野菜スープを啜った。瞼が赤い。カラン、と彼女が持っていたスプーンが皿に当たった。
「ごめんなさい」
「どうして謝る。俺は何もされてない」
「料理と掃除は、私の義務だわ。さぼってしまったもの」
「―そんな目で、客の前に出てこられる方が迷惑だ」
ノラは唇を噛んだ。
「そうね…ごめんなさい」
殊勝な声を出されても、慰めの言葉なぞ出てこなかった。
ノラはスプーンを手にとって、再びスープを口に運び始めた。沈黙に支配される、長い長い食事。私は皿だけを見つめて、パンを千切り、ほうばる。塩のふり加減は丁度のはずだ。だが、下が麻痺したように、味が分かりにくい。
(あなたは、ピアノだけを見ているのね。)
甘いも苦いも分からない、あの時と同じだ。妻が逝った翌日の食卓。あの朝のコーヒーだけは、黒いだけの色水を飲んでいるようだった。
「ディー」
ノラが私の方を見ていた。私が顔を上げようとすると、
「こっち向かないで」
…。
「私、迷惑ばかりかけてるわ」
「あぁ」
「突然やって来て、勝手に居着いて、訳の分からないこと喚いて泣いてる―だからね、今から言うことは私の独り言。ディーは音楽を聴いているの。サティの曲みたいに、私を家具だと思って」
「随分と五月蠅い家具だがな」
「うん、ごめん」
今日のノラは謝ってばかりだ。私は、同じ姿勢でパンを少しずつ囓り続けた。耳だけは、家具の軋みを聞き漏らさないように。

「―ここから西方の海沿いの街に、私は住んでいた。赤い屋根とお庭のある家、決して貧しくはなかった。父と母、そして弟が私の家族だった。…ただ、弟は、少し体が弱かった。心の方も。精神科医である父は、何とか弟を治そうと、色々な書物を読みあさり、母は私に『我慢しなければならないこともあるかも知れないけれど、了解してね。あなたはお姉さんだから』と言い聞かせた。私は弟を愛していたし、彼等が尽力しているならば、そうするべきだと思っていた。父はとても頑張っていたわ、自分の仕事に誇りを持っている分、彼を癒せる事に自信を持っていた。だけど弟は治らなかった。いつまでもいつまでも、病院に入って五年も六年も経っても、子供のように蝶を追っては街道を裸足で走り、病院に連れ戻される毎日が続いた。いつだったか、勝手に飛び出ていったのを車に撥ねられかけて、弟は一般病棟から個室に移された。父の自信と誇りは打ちのめされた。そうして、それを母に当たるようになった。母は泣いて、私にこう言うようになったわ。『あの子のことは今でも愛している。でも、お前はあの子のようにならないで。お前は普通でいて』と。母の普通が何を指すのか、私には分からなかったので、私は父と母の悲しむことはしまいと、弟のようにふらふらと外を歩き回らない、それが「普通」なのだと思い過ごした。そうしてずっと私は「普通」だった。彼等の願うとおりに、彼等が見ている世界の住人であり続けた。―ある日、私は弟を見舞いに行った。父は勤務で忙しく、母は疲れているようだったから、その時私は一人だった。彼は病室で、いつも通りやんわりと微笑みを口に浮かべた表情をして、窓から外を眺めていた。近づいた私は、彼の手に何かが握られているのを見て、咄嗟に声を上げた。ナイフだと思った。今じゃどうしてそう思ったのか分からないけれど、きっとそうだと思った。彼は「普通」じゃなかったから。だけど彼、振り返ってにこにこと笑った。『あげる』って、握り締めた方とは反対の手を出して。私は恐る恐る近づいて―差し出されたものを手に取った。それは画用紙に描かれた絵だった。三角形を二つ合わせた、口を広げた貝殻がたくさん散らばっている―でもそれは、浜辺を描いたのではなく、蝶だった。蝶の群れ。グラデーションや、ぼかしなどの技なんて一切ない、クレヨンで単純に描き殴っただけの。何色もの花が咲き乱れる中央で、男の子が両手を上に伸ばし、蝶と遊んでいる。とても―美しい絵だった」


―あなたには、世界がこんなふうに見えているの…?


いつまで経っても、五歳ほどの考えしか持たない弟。きれいな場所で蝶を追い続ける。体一つを成長させ、心だけはそのままで。

「私がその時何を思ったか―。『普通』じゃない弟を、可愛がり、憐れんできた私の中に、何が生まれたか。小さな紙に広がる世界。普通であり続ける私には、決して手が届かない場所。絵を握り締めながら涙を流したのは、感動だけが理由じゃない。何者からも自由でいられる弟への、あれは怒りだった」

『お前はあの子のようにならないで』

でもママ、私は欲しかったのよ。私にしかないものが欲しかった。

「私は生まれて初めて、何かに没頭することを願った。弟のように、意識とはかけ離れた絵は描けなくとも、私に出来ることを探したかった。けれどそれは、すぐには見付かる物じゃなかった」
私は、想像したままの言葉を滑らす。
「それで、エドラか」
ノラが私の問いに頷いたのかどうかは分からない。私の目からは、彼女が着たTシャツの胸のロゴから下しか見えない。だがおそらくは頷いてはいないだろう。ノラは話し続ける。予め吹き込まれた録音を流すテープのように、時折、ノイズを交じらせながら。

「エドラのレコードは、父の書斎のゴミ箱に捨てられていた。クラシックしか聴かない父が、人からもらった物だった。封を切ってもいない新品。勿体なくて、一度だけ聴いたらゴミ箱に戻すつもりで、こっそりと再生した。ピアノの鍵盤が、初めのスリーを数える。トゥー、トゥー、トゥー。小さな破裂音は、知らない楽器が奏でる出だし。紡がれるままに止まらない、それまで一度も聴いたことがなかった、自由なリズム。いつの間にか、私は歌っていた。歌詞なんてなかった。出鱈目に、音だけを追い続けていた」

それは、少女の一人遊びだったのかもしれない。『自分のもの』という玩具を手に入れたというだけの、幼い自己満足。それを人が笑うというのなら、笑えばいい。だが彼は―彼女は笑わない。笑うわけにはいかないのだ。自身の存続のために。

「私は、私の蝶を追った。憧れてやまなかった、弟の見ていた世界のほんの一部を、自分のものにしたような気でいた。父は、歌うのをやめろと言って私を叱った。そんな浮いたものばかり見てどうする、お前は弟と同じ道を辿るのかと。母も同じ事を私に言った。だけど、それは違う。あの子は絵に支配されていた訳じゃない、色彩の統一者はあの子の方だった。でも、私達家族を束ねる地位にある父は、断じてそれを受け入れることは出来なかった。病を治す者という、父の自意識がそうさせた。お前は私が治すという言葉を聞きながら、弟はそうしてずっと病院の中だった。私は思うの。弟に医者が必要だったというのなら、診る医者は父であってはならなかった。それは治療ではないからよ。父があの子に向けたのは、自分のものが自分の所へ帰ってくることへの期待、両親が子供に持つ自負だったのだから。でも、もう弟は父の所に帰らない。あの子は行ってしまった」

ノラは皿を重ねて席から立ち上がり、私の隣を横切った。
「お皿は、明日の朝まとめて洗うわ。他のもまだあるし。ディーのも置いておいて」
「家具はもう終わりか」
「ええ―終わりよ」
彼女はそう答え、屋根裏への階段を上がろうとした。
「ノラ」
足音が止まる。
「お前は、両親が嫌で家出したのか」
「我ながら単純よね―お休みなさい」
ドアノブがカチャリと鳴って、私は一人となる。夜明けはまではまだ遠い。





手の平に鍵が一つある。長細い、くすんだ銀メッキのものだ。穴に差し込んで回し、蓋を開けた。

ポーン。

もう一度、指を置く。

ポーン、ポーン。

「何をしているの…」
瞼を擦ったノラが、距離をおいて立っていた。私の触っている物を見て、やおら目を丸くした。
「ピアノ―」
「音が滅茶苦茶だ。ノラ、ドをくれ」
「え、でも」
それって逆なんじゃ、とその口が言う前に、上から二番目のを、と頼む。
「待って、待ってよ。ええと」
ノラは、パジャマ姿で直立し、もう一オクターブ上のドから下げた。細いが、透き通った声だった。
「…これでいい?」
「待て、もう一つ」
今度はミを。ノラの音階は完璧だった。裏蓋を外してちょっとずつ音を合わせてゆき、聴ける程度にまで調律していく。
「お前、声はいいが、ジャズには向いてねぇな」
「そんなの分かってるわ」
ノラは大人らしい態度を示そうとしたが、頬が膨れていた。私は笑った。
「…これは?」
カウンターの隣の隙間には、いつもうず高く切り布が積まれているが、今は床に散らばっている。取り払われた布の下には、キーボードほどの小さなピアノがある。
「店始めてから、ノリでつい買っちまった」
私は、エドラからもらった譜面を立て掛けた。右手だけで、音符を拾う。傍に近寄ってきたノラが、譜面を覗き込んだ。
「これ!私が初めて聞いたエドラの曲だわ」
「なんでか知らねぇが、あいつが俺に置いていった。俺はろくに弾けもしねぇってのに」
左手を添えて、ゆっくりと始める。
「ディー、下手だね」
「弾けねぇって、言っただろう」
「うん。この曲、『Taris』の一番目に入ってるのよ。何度も歌ったから覚えてる。バラードなの」
ピアノの側面に腰を落として、ノラは呟くように歌い始めた。起きがけの掠れた声で、彼女は歌う。


私に翼があったなら
私はそれと引き替えに
白い肌着をもらうでしょう

私に肌着があったなら
私はそれと引き替えに
二本の足をもらうでしょう

私に足があったなら
二本の足はそのままに
ずっと歩いてゆくでしょう

そうして何処までも
何処まででも行けたなら
立てなくなったその場所で
月が霞むまで歌うでしょう


「…人間になりたがった天使の歌なんだって。望んで足を手に入れたから、死んでも、翼はもう戻らない。でも、本当に天使の歌なのかしら。翼なんて、初めからないみたいよ。出だしから仮定のお話なんだもの」
「じゃぁ、天使じゃなくて、人間の歌なんだろうよ」
「―人間になりたかった、人間の歌?」
「お前、もう許してやれ」
「昨日のあれは独り言よ」
「父親の事じゃない」
「―」
「例え弟を残してきた理由が、妬みからだったとしても、誰もお前を責めやしない」

―あの家に必要じゃないのは私だった。

―あの子じゃないわ―神様―。

「両親が良しも悪しも息子を手厚く扱ったのは、彼を大事にしていたからだ。だが、それでお前が、こちら側の世界にいただろう弟の代わりなんかしなくていい。何が普通かなんて、誰にも決められやしねぇ」
「―」
「お前の肩にも、蝶は止まっているさ。ただ、そこらを飛んでいる方のが、羽根がちょっとばかりきれいに見える。―続けな」
「下手よ」
「俺のピアノにゃ丁度いい」
奏者は一日だって練習を怠れば、結果が直に指に出る。私の手付きがその典型だ。だがそれでも、身内を亡くした人間に弾いてやれるくらいの覚えはあった。
天井を見つめていた彼女は、やがて細い旋律を、途切れ途切れに唇に運んだ。


―私に翼があったなら。


ノラの頬が濡れていく。私はただ弾き続ける。彼女が自由を求め、また、そうであり得たかもしれない時間に、彼女が失った物を思って。





 エドラの演奏を聴いたら出ていくというのが約束だったので、今日が彼女との最後の日になる。突然の訪問から半年経ってからの、彼の再来は、今度は連中にも伏せておいた。今日はただの休業日なのだから。看板娘がいなくなると、売り上げは元に落ち込むかもしれないが、エレンに睨まれないほどには金を返せている。彼女はよくやってくれた。
また厨房で聴くか、と私は意地悪く言った。
「大丈夫よ、今度は」
ノラは紺のワンピースを着て、化粧までちゃんとしている。普段の彼女とは、まるで別人だ。
「随分めかし込んでるじゃねぇか」
「特別な日に、好きな人の前で変な格好したくないわ」
…そういうことか。まぁ、若いもんが若者らしくするのは悪くない。他愛のない話をしながら、エドラの登場を待った。行ったり来たり、落ちつきなく店の中を歩き回っていたノラは、何を思ったのか、隅のピアノを引き出して、蓋を開けた。
「ねぇ、ディー。ピアノを弾いてくれない?」
「今か?もう、エドラが来る時間だぞ」
「ちょっとだけでいいから」
「だが、」
躊躇している間に、チリン、とドアノブに括り付けてあるベルが鳴った。来たか。ノラはちろりと舌を出したが、その顔は華やいでいる。
聴衆は二人だけだが、いいだろう。私がドアに向かうより早く、それは開いた。心待ちにしていた客が訪れる―はずだった。
「ママ―」
「帰るわよ」
ドアを開くなり、ノラと目を合わせた女は、早足で彼女に近寄り、手を取った。
「待って、待ってママ!」
「この期に及んで何を言う気!パパもママも、リデルのことで凄く気を張って疲れてるのよ。それがあんなことになって、大変なんてものじゃなかったのに、こんな所で油を売ってたのね。弟が死んだというのに、そんな派手な格好までして、なんて薄情な子。『看板娘のノーラならって彼処だ』って、人伝に聞いた私の気持ちが分かる?恥ずかしくて、顔から火が噴きそうだったわ」
「ごめんなさい、ママ。でも、どうしても帰れなかった」
「あなた、もしかして、まだ歌なんて歌っているの?プロになれる才能もないくせに。あなたにはちゃんと、お医者になるための学校に通わせていたでしょう。何が不満なの。パパはあなたに、精神科医になって欲しいの。ねぇ、あなただって、リデルを助けたかったでしょう、可哀想なリデルが、他にも沢山いるのよ。彼等の役には立ちたくないの?助けてよ、助けてあげて」
「ごめんなさい、ごめんなさい。でもリディーはもういない。私達のリディーは一人しかいないのよ。ママ、私はお医者になれない。彼等に『治って』とは、もう言えない」
「お前は!なんて冷たい子!」
女の平手が上がった。ひゅっと、空を切ったそれを、私は掴んだ。
「腹が立っても、手だけは出しちゃいけない。それに、ノラが着ているのは礼服だ」
「…なに、あなた」
「ママ、やめて」
女は私をじろじろと眺めて、馬鹿にするような小笑いを浮かべた。
「―そういえば、見たことあるわ」
勢いよく手を振り払って、女は鼻の頭を一上げした。
「リリー・ジョーンの一座にいたわね。今が花のジョーンがボーカル、あなたは確か―そう、ピアノだった。ボーカルが引き抜かれて解散したけど、その後何をやっているのかと思えば、こんなところにいたの。まぁ、あの程度のピアノじゃどこも難しかっただろうけれど」
「ママ!何て事言うの」
「あなただって、今のままじゃこんな風になるのよ。でも大丈夫よノーラ、いつか私に感謝する日が来る。あなたは沢山の人を治して、いっぱい感謝されるようになるわ。こんな素晴らしい生き方が他にあって?さあ、」
なおも女を引き止めようとした私に、女は眉を吊り上げて、言った。
「この町でさっきお茶を取った時、みんな噂してましたわよ。今は大分ましになったけど、そこのカフェの店主、若い時は仕事もそっちのけでピアノ・ピアノ、病気の奥様まで見殺しにしたんですって。お可哀想に」
「―」
「さあ、行くわよ。まずはリデルのお墓に行きましょうね」
女がノラの手を強く引っ張る。
「お願い、ママ。もう少しだけ待って」
「これ以上待てやしない」
「…ディー」
ノラが呼ぶ。私は―。
「ディー、ごめん。エドラに―」
引きずられる体を、彼女は千切れんばかりにして、足で堪えた。
「エドラに伝えて。愚かな少女が、あなたの音で生き延びたと。そして、ディー」
腕を引かれ、ノラが履いていたヒールの片方が床を打って転がった。
「私は、あなたが、」
ノラの目は、青い、青い空の色。私はその目を見ることが出来ない。
「さ、行くわよ」
女は有無を言わさず娘を連れ出す。
揺れたドレスの裾が、ドアの向こうに消えた。





「…おや。今日は、お一人ですか」
ステージの照明の一つだけを付けた部屋で、二つだけしかない席の片方を空けて、私は座っている。エドラはステージに上がり、ゆっくりとケースを開いた。
「…あんたに伝言だ。あんたの弾く曲をレコードで聴いて、大層感激したそうだ」
「それはそれは」
「あの時、聴いていなかったら、自分は生きながら死んでいく一方だったと―それを感謝しておいてくれと、そう頼まれた」
「その人は何処に」
「母親が連れて帰った。ノーラって名前の娘だ」
エドラは楽器を手に取った。弾くふりだけしながら、穏やかな調子で言う。
「それで、あなたは一人でここにいる、と。いいのですか、席が二つしかないのを見る限り、あなたはその子のために、今宵のステージを用意したように、私には思えるのですが」
「―いい、俺には無理だ」
「無理、とは」
初対面にも等しい男に、何を話せばいいだろう。父のこと、亡くなった妻のこと―ピアノを弾くのをやめたというそれでさえ、自分の弱さがつきまとう。だが、静まりかえった部屋、沈黙の中に一人対面しているこの状況で、他に言えることがあるだろうか。私は、皮肉っぽく語った。
「俺は小さい時、父の部屋にあったピアノが好きだった。黒塗りの、ピカピカ光っているやつだ。この銅色の肌のおかげで、身に覚えのない仕打ちを受けても、あれだけは俺の自慢だった。だが、父は農場の経営が上手く回転せず―それだって、後から地主のやつが裏で販売を邪魔してたんだが―知っても後の祭りだ。家を丸ごと売り払っても返せないくらいの借金が出来た。俺は父に願った。あのピアノだけは、持っていきたいって。父は俺に謝ったが、俺の願いは聞き届けられなかった。青年になった俺はそれが忘れられなかったのか、バンドといえばどこでも渡り歩いた。父のように諦めることが出来なかった。ひたすらピアノがあるところで練習し続けて、売れっ子のジョーンズのいたグループに入り込めた。俺は、自分の実力だと思ってハイになっていた―ピアノが抜けていた間の、短い埋め合わせにすぎなかったのにな。一人往路に取り残され、それでも俺は諦め悪く、こっちに来て知り合った女と結婚して店を開きながら、一方でピアノを弾き続けた。いつか、いつか、って、毎日、毎日だ。いつの間にか仕事も疎かにし、妻の病気に気付きもしなかった。息を引き取る間際、妻は悲しげな顔で俺に言った」


あなたは、ピアノだけを見ているのね。


「好きなものを見たいだけだった。夢を見るだけなら誰にも迷惑をかけないと。だが、妻は死んだ。俺が殺したようなものだ」
「―ですが、入ってきた時、奥のピアノの蓋が開いていましたよ」
「あれは、ノラが、俺に弾いてくれと」
「何をですか」
「あんたの曲をだ」
エドラは、私の顔をじっと見た。彼の茶色の目を見ていると、何故か父を思い出す。私が何か良くないことをした時に、私を正面にして、焦点を変えることなく見つめた父の。そういえば、エドラが何故こんなところにやって来たのか、私はまだ聞いていなかった。
「『天使の遺言』ですか」
「あぁ、手書きだったから、少しばかり見にくかったが」
「当然です。あれは、世界に一つしかない譜面ですから」
「あんたが書いた元本か」
違います、エドラは言った。
「あれは、あの曲は、あなたの父親が、私にくれたものです」

(なんで、なんでだよ。)

少年は泣きじゃくる。

(なんで、大事なものを手放さなきゃいけないんだ。パパはピアノなんか、本当は好きじゃないんだ。)

父の胸を拳で叩きながら、私はあらん限りの罵倒を浴びせかけた。自分ばかりが可哀想で、父の顔を見ることもせず。

(―お聞き、私のディノ)

父は。

「…何故」
痛みを封じ込めていた胸が、傷口の糸をきりりと引っ張った。血を見ることを恐れ、無理矢理に縫い合わせてから決して振り返ろうとはしなかった。それは金の稲穂に囲まれたあの家での、最後の記憶。
「彼と会ったその頃、私はほとんど無一文でした。通りや広場で曲を披露しながら、ジャンクフードを食事にする日々。もうやめよう、やめよう、と思いながらも、他に職の当てもなく、腹を空かしてばかりいた。けれど弾く力もつきかけて、音を鳴らすことも出来なくなったというその時、ケースの中にコインを投げ入れた人間がいました。『どうだい、もう終わりか』、黒人の男性は私の前でそう言った。物乞いみたいに見られたのかと、私は、ありがたく受け取っておけばいいのに、変なプライドで腹を立て、挙げ句『馬鹿にしやがって。見てろ、こんちくしょうめ』と意地になり、自分の持ち曲を全て音にして吹ききった。男は全部聞いてから、拍手をして去っていきました。彼はそれからも時折、私の演奏を聞きに来ました。私の曲に合わせ、無意識に両の指を動かしている日もあった。『ピアノが好きでね』と言ったその時だけ、彼は気恥ずかしそうな顔をしました。そうしていつも、同じ額の硬貨を一枚、ケースに投げ入れていった。いつからか、しばらく男は現れなくなりました。それがまたふらりとやって来たかと思うと、今度は『何か聴かせてくれるかい』と、どこか寂しげな表情で私の演奏を聴き、そうして、『今日のこれが最後の礼だ、自由にしてくれ』と言って、その譜面をくれました」

父のピアノが好きだった。鍵盤を弾く中で、時々、途切れたフレーズが繰り返されるのを、私は父が知らない曲を練習しているのだと思った。

「彼は、自分はもう弾くまいと誓っているようでした。私にはやれと言いながら、あなたは諦めるのか。非難がましい私の問いに、彼はこう答えました。『私はピアノを愛している。だが、それよりも愛しているものがある。それは、私の家族だ』と」

(お聞き、お聞き、ディノ)

分かっていたのだ、私は。

(大事なものから、一旦離れることは、悪い事じゃない。それは神様のくれた時間なのだ。私達が何を一番にしなければならないのかを、間違わないためのね。そうして、ディノ、もし間違わなければ、いつかお前の手に戻ってくる。私の願いは半分叶わなかったけれど、もう半分は叶ったよ。お前がどう思うか分からないけれど、私には十分だ。)

分かっていたのだ、父がどうしてピアノを手放したのかぐらい、最初から。

「ようやく、彼に会わせる顔を持てた後、私は彼を捜しました。どこかで彼が聴いていたらと思い、彼の曲をサックスにアレンジもしました。ですが、彼はすでに亡くなられていた。彼の家の近くに住んでいた住人から、彼には一人息子がいたと聞きました。それを知って、私はこれを返そうと思いました」


―私に翼があったなら。


「永遠はそう都合良くあるものではありません。私の指も、いずれは震え、使い物にはならなくなるかもしれません。―ですが、いいのです。十本の指以上に、音を愛したというそれだけです」
「…父も、そうだった」
私は呟いた。
「知っていた―あの家にある一番高価な物はピアノで、それを売らなければ家族は暮らしていけない。だのに私は責めた。自分のせいだと思いたくなかった」
「捧げたのは彼自身です。他の誰が何を言おうとも、彼は満足だったでしょう。あなたは、」
エドラは優しく言った。
「あなたの心をご覧なさい」





汽笛が鳴った。
「お客さん、ちょっと!」
改札口を走り抜け、走り出す夜行列車と共に、ホームを駆けた。
「ノラ!ノラ!」
野太い声を張り上げる私を、誰もがぎょっとした目で振り返った。動きを速めた列車の遠くで、窓が一つ開かれた。結った髪をざんばらにして、頬に張り付かせている。ホームの電灯の下に浮かび上がる、紺のドレス。
「ディー!!」
化粧なんて、涙でぐじゃぐじゃになってしまっていて、見れた物ではない。私は走った。
「ノラ!蝶はいる、忘れるな!」
私のもとに、父の言葉が帰ってきたように。
「俺はまたピアノを弾くから、お前は歌え。歌える限り歌え。そうしていつか、また会えたら」
ノラは頷いた。窓から精一杯に身を乗り出して。
「あの店でもう一度―」
闇に吸い込まれていく列車。私の足は、もう届かない。
道の途絶えたホームの先で、私は膝を折って泣いた。父のピアノを失ってから、初めて流した涙だった。









―あれから、三年と少しが経とうとしている。店は今も続いている。喫茶にしては多いメニューの品数を売りにして、何とかやっている。
エドラは父の曲の著作権とギャラを、全て私に返すと言ってきた。だが、私は断った。父が彼に与えたのならば、それはエドラのものだ。音楽好きだった父は、金色に輝くエドラの楽器との共演を夢見ていたのだろう。それを証拠に、譜面には所々、予め印刷してある五線譜にあるのとは別に、重奏をイメージした音符が、走り書きの線と一緒に書き込まれている。未完のそれを完成させたのは、エドラの努力と才能以外の、何物でもない。
二度目の彼の来訪が、私との共演を計ってのことだったとは、後から知った。彼は今も、一目を忍んでは飲みに来る。皮膚の硬くなった指先を時折マッサージしながら、一人で静かにウィスキーをちびるのが、彼のスタイルだった。
今日は、春を一気に飛び越してしまったように蒸す。客は皆ドリンクのグラスを取って、氷を入れて飲んでいる。エレンは相変わらず、毎月厳しく取り立てにやってくるが、来るたびに何か必ず注文をしていってくれた。
「なぁマスター、弾いてくれよ」
客の一人が、テーブルにレポート用紙を広げて言った。
学生らしい。頭髪をつんつんに立てた同伴者の少年が、物珍しそうにそれを覗き込んだ。
「貸してみろよ。オメェ、こんな問題もわかんねぇのか」
「じゃぁお前分かるのかよ」
「簡単だ。ルートって、確かゴロがあるんだよな」
「あぁ、もう。4だから実数になるんだって」
こんな珍妙な組み合わせにも慣れてきた。
「お前、なんで来るわけ?ゲーセンなら向かい側だろうが」
「いやぁ、だってさ。なんかここボーっと出来るし、ピアノ聴いてると気持ちよく寝れるしさ」
「寝に来るのかよ、暇人」
「ちょっと、静かにおし!あたしゃ昨日全然眠ってないんだよ!」
それまでずっとテーブルに死んでいたエレンが、身を起こした。苛々した様子で煙草を口にし、うまく点火しないライターを、カチカチ鳴らす。
「あたしからもお願いするよ、ディー。うんと、たるいのを弾いておくれ。この糞暑いのを忘れるくらいのをさ」
そんなに急かされても、私の指は魔法の指ではない。椅子に座りながら、何を弾こうか迷った。

チリン。

「はいよ、いらっしゃい」
音だけに反応して、私は声を大にして言った。内側に押されたドアの隙間から、リボンを付けた帽子が少しだけ目に入った。日よけに掛けたメッシュ地のカーテンが、滑り入ったそよ風に揺れる。同時に、どこからともなく迷い込んできた物が、ひらりと舞った。それは私が弾き始めたピアノの上にとまり、休むように羽根をたたんだ。




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あとがき
女の子を書くのが苦手な私には、珍しいお話になりました。おまけですが、マイ画『空中庭園』でこのお話は終わります。お付き合い下さった皆様に、心からお礼を込めて。