生きながら死んでゆくことはそんなにも難しくないと、思ったのはいつだったろう。あるいは死んだまま生きてゆくことは、と。

今日僕は昨日と変わらぬ一日を過ごす。おはようの挨拶を撒き散らしながら教室に入り、欠伸をかみ殺してお昼のチャイムを目覚まし代わりにする。四時間目が終われば昼寝の時間だ。外は良く晴れている。目を閉じても、闇は欠片さえ感じられない。どこまでも透明な光線が瞼を貫く。

たぶん、おそらく、君は怒ると思うのだけど、納得させられるだけの言葉が見つからないので、このままいくことにするよ。僕は自分に同情しなかったわけじゃない。けれど同時に、不幸を感じていたわけでもない。その理由は僕が消えた後の世界にあらわれるだろう。



僕は二度言う。
一度目は僕自身のために。
二度目は泣いてくれるだろう君のために。

たとえば君が、何年何十年たって、どこか知らない場所に行ったとしても。

君は僕を忘れない。
君は、忘れない。








た と え ば 君 が 、




 彼が死んだと聞いたのは、久々の長期休暇を手に入れ、帰り支度をしていた夏の始めだった。このままでは無理だと、「太鼓判付きで」危ぶまれていた進学も、金沢の適当な大学にラインすれすれで 何とか合格し、地元の京都を離れて三年半になる。地理的にどちらも同じでないか、とは言わないでほしい。建築系の学科はむろん京都にも存在していた。しかし僕にとっての優先順位は家から出ることにあった。それが可能なら、別に休みごとに電車に揺られる面倒をかけなくてもよかったのだ。だが定住するべき場所がすでにあって、収入支出の全権を手にする両親に、どうしてアパート住まいをおねだりしたり出来るだろうか。「そんなことできますか」と一掃されるのが関の山だ。一人暮らしに憧れたごく普通の男子学生として点数が足りないのを建前に、それでも近場を選んだのは、お互いの希望に最大限添った結果だった。
「私は地元がいいって言ったのだけど」
一回生になりたての頃、母は僕が帰郷するたび、そんな風に口を尖らしたものだ。これまで主要行事の学校祭の時にだけ、やる気のやの字を一極集中させていた僕には身に痛いお言葉であったが、父は食卓で味噌汁を啜りながら「昔のことを掘り出してもしょうがない」と、一応のフォローを入れてくれた。今でこそソフトウェア会社の営業部長なんてものに収まっている父は、大学時代には講義をさぼり、嬉々としてカメラ片手に全国を駆け回っていた実歴を持つ。僕を指導するには説得力に欠けると自覚しているのだろう。

 彼とは中学の卒業と同時にほとんど連絡を取り合うことはなかった。もともと彼はそういう性格をしていなかった。無精と言うより、手紙やメールそのものに興味がなかったのだと思う。普段真面目に見えるだけに、ある日突然行方をくらまし、またふらりと戻ってくる放浪者的な側面を知る人間は少ない。東京の某有名大学に在籍していると、その周辺に一足早く就職した他の友人から、同窓会の時にたまたま聞いた。(彼はそれにも参加していなかったのだが)
彼が何を思っていたのか、僕には分からない。ただ一つ理解出来ることがあるとすれば、彼の肩を掠めていたものが自分のそれと似ていたということ―それも単なる思い込みに過ぎないのかもしれないが。
 電話を握り締めたまま、僕はどのくらいそうしていただろう。気がつくとすでに母の声はなかった。臨終を告げる効果音に似たトーンが、回線から無気力に伝わってくる。開けっ放しの窓からふわり生暖かい風が流れ込んできた。お飾りにすぎないバルコニーの向こう側で、蝉が鳴いている。狭い道路と、それを挟んだ向かい側の住宅街。いつもと、変わらない眺めだった。














「―とう、高塔(たかとう)っ」
鈍い振動が後頭部を襲った。ぐにゃりと曲がった視界が原型を取り戻すのに、時間はかからなかった。生徒達が教室の真中を注目している。何故彼等が笑っているのか直(なお)には始め分からなかった。「ふにゃ」とだらしのない声をあげて、重い瞼を擦った。
「おはよう。目、覚めた?」
長い三つ編みを両の肩に垂らした少女が、丸めた国語資料集を片手に、後ろの席で頬杖をついて座っている。安眠を妨害した物の正体を知るやいなや、憮然とした面持ちで抗議の奇声をあげた直に、少女は余裕の表情で前方に顎をしゃくりあげた。
「よく眠れたようだな、高塔」
そんなに、と言いかけたところで、直の半開きの口元が固まった。見た目には普段の三倍ご機嫌な笑みを浮かべた男性教師が、指を組んで教卓の椅子にかけている。開いているのか閉じているのか判別しにくい細い目は、しかしそれを縁どる太い眉が痙攣していることからして、やはり直を睨みつけているに違いなかった。
「一時間目から熟睡とはいい度胸だな。気持ちよさそうに寝息までたてて」
「ええ、まあ」
はははと笑ってごまかす直に、教師は溜息をついて太い腕を泳がせた。今年の梅雨入りは、平年より十日数日遅れたという。九月になったというのに炎天下の猛暑日が続いており、だれ顔の生徒が目立つ。教室の窓際に設置されている形ばかりの冷暖房は、時折分解間際の不吉な音を立て、生暖かい風を噴出させている。気持ちのいいはずがない。いっそ無い方がましというのが正直な気分だ。
「次いくぞ、ほら、みんな前向け」
落着きのない生徒らに注意するものの、頭に白い物が目立ち始めた中年教師は動くのもだるげに背中を丸めた。この糞暑いのに加えて人の話を聞こうとしないガキどもなんて、これ以上相手にしてられるか、といった感じだ。やる気の無さでは同等なので、直は教師の中弛みを非難することなく、代わりに再び頭を沈めようとした。
ガコン。先ほどと似たような痛みが繰り返す。口やかましい幼馴染は、どうしたって安眠を妨害したいらしい。
「ってえ。なんなんだよ真奈津(まなつ)。寝かしといてくれよ」
「ねえ直、知ってる?」
知らないと即答したが、人の話を聞かない真奈津は構わず続ける。教師に聞こえないようにだろうか、すかすかと抜けるような声だ。
「明日ね、転校生が来るらしいよ」
怪訝な眼差しを向けた直に、真奈津は囁いた。
「しかもうちのクラス」
それを言った数秒だけ、少女は丸い目を一まわり大きく開いた。好奇心に満ちた気持ちを誰かに打ち明けずにはいられない性格なのだ。どこから仕入れたのか、転校生の出身は東京らしいとか何だとかいう情報を、真奈津は両手に顎をかけて話し出した。
「親が開業医をやるらしくて、わざわざこっちに越してきたらしいよ」
直接口に出しはしなかった疑問は、それでも直の顔に現れていた。眉に指を当てて、少女は「気になる?」と言いたげに直の反応を窺った。珍しいものを見れば、何だって三文ミステリーにしてしまう真奈津のことだ。一々付き合っていては時間と労力の無駄は必至である。
 机にへばりついていた体を起こして、直は黒板に向き直った。いかめしい顔つきの三十路男がこちらに背を向けて、「恩」の字を書いているところだった。直は机の引出しからノートを探り出しながら、必要以上に面倒くさげな声を出した。
「どうだっていいだろ、そんなこと。それより授業真面目に受けとけ、ただじゃないんだから」
「それ、あんたにだけは言われたくない」
そっぽを向いた少女の髪が揺れるのを後目にして、直は机の脚を引いた。寝覚めで好き勝手な方向に跳ねた髪を、撫で付けるようにしてまとめる。まだぼんやりと霧がかった脳が、真奈津の言った言葉に、やっと反応を起こした。
(こんな時季外れに)
葉色変わる季節。夏には深い緑を見せた山々も、今は明るい色を混ぜ返している。窓から外に広がる風景は、直が入学した時から変わりがない。やたら国際事情が複雑になってきた世の中で、こうものんびりした所は他にないだろう。春爛漫となる公園を構えた市街中心地は、ここから十キロ以上離れている。さてはその親子ども、県の知名度だけで決めたな、と直が思うのも無理のない話だった。
「さて、ここで帝の恩寵とあるが―、お、高塔やる気になったか。今日は雨が降るかな」
蒸し暑い教室の空気を破裂させたような笑いが起こる。
「ひどいな先生、俺真面目にやってるよ」
鼻の頭を掻いて、直はノートの真っ白なページを開いた。
「馬鹿」
呟いた真奈津の声は不機嫌そうだった。







―ぱん、ぱん、ぱあん。

夕闇に花が咲く。夏の匂いの残影が光を灯す。去るには早い。名残惜しさを感じさせるのは、空に垂れた柳があまりに迷いなく散るせいだ。土手石に座り込んで、直は月が浮かぶのを見上げていた。細い三日月だった。触れればその先で指を切ってしまいそうなほど、その金色の輝きは冷たい。
男が一人、直に近づいてきた。白い浴衣を着た小さな人だ。小さいとは言っても、男の三十半ばを越した年を考慮したことで、直よりは胴一つ分ほど背が高い。左手には尾の赤い線香花火が握られていた。
「直君、やるかい」
痩せた腕が差し伸ばされたその手から、直は一つ受け取った。川原には何人かの大人達がいて、八月に行われたお寺祭の、残りの花火を打ち上げているところだった。小連れの親子らが、川岸で団扇(うちわ)を片手に涼んでいるのが見える。
「季節外れだよ、白兄(しろにい)」
下駄をカランコロンと鳴らして、男は傍にあったバケツを寄せて直の隣に座った。右手のライターを自分の持っている花火の頭に近づけて、燃え出したそれを直の花火に寄り添わせる。豆電球よりも小さな明かりが、二人の顔を照らし出した。
「僕はいいと思うけどね、きれいだし」
男の名は白崎(しろさき)緋ノ里(ひのり)といった。直の住む近所で薬屋を営んでいる。年齢と釣り合わない学生風の面立ちで、やんわりと柔らかい物腰が居心地のよい気分にさせる。浮き世離れというよりも、世間一般の常識から少しばかり逸脱した様相があり、模様一つない浴衣の趣味などはその一端に過ぎない。聞くところによると、緋ノ里の実家は山を一つ越えた隣街にあるという。薬剤師の資格を得てから暫く資金調達に明け暮れ、親元を離れてこちらに家を構えたのが三年ほど前のこと。「一人暮らしが楽でいい」、こじんまりした住まいの縁側で、彼は寝そべりながら口癖のようによく言った。
物好きな奴が白兄以外にもいたのかと、直はふと昼間の話を思い出した。
「ねえ白兄、明日転校生が来るんだってさ」
「知ってるよ」
思わず首を傾けて見上げた拍子、緋ノ里の足の爪先で火花を散らした玉がぼとりと落ちた。
「あー、まだ燃えてたのに。もったいない」
心底残念がる緋ノ里の言葉を聞かず、直は「どうして」と繰り返す。自分のが早々に終わってしまった緋ノ里は、直の手元で踊る火を眺めながら、のんびりと答えた。
「そんなに不思議かい。今日の昼過ぎに、町に新しく入った者ですって、二人でみられたよ。息子のこともよろしくと言って紹介してくれてね」
では男なのか。白兄に懸想している真奈津はともかく、常日頃の顔ぶれに見飽きた女どもにとっては恰好の餌食になるだろう。おまけに出身が、修学旅行で遊びに行けたら万歳の大都市とくる。
「…俺は聞いてない」
話題集中と予測された人間に嫉妬したわけではない。しかし仙人のような生活をしている白兄でも知ってることを、自分が知らないことは何か気に食わなかった。緋ノ里のところに来たということは、直の家にも来たに違いない。何しろその向かい側なのだから。
「直君、家に帰ってすぐ川原に手伝いに来たろう。だからお母さん、君に話せなかったんじゃないの」
それにね、と緋ノ里は言葉を切った。
「息子さん…何て言ったっけ。まぁいいや、そっちはえらいべっぴんさんだったよ」
「は」
時を止めた直の顔つきがよほどおかしかったのか、緋ノ里はけらけら笑い出した。先がすすけた線香を、直の代わりにバケツに放り込んで、腹のあたりをさする。
「すごく礼儀正しいというかなんと言うか。東京育ちとはまた別の意味で人種が違うって感じがした。あれはあれで困るのじゃないかな」
「誰が―」
直は唇を噛んで、対岸に視線を移した。誰が困るのだなどと問う必要もない。そんなの、その転校生に決まっている。緋ノ里は本当に言うべきことの半分も口にしない人だ。欠片から汲み取って、こちらがその意味を形にしなければならない。緋ノ里が言おうとしたことは大体分かる。つまり、顔も育ちも生まれもいい幸福な新参者に対して、のどかな山間の町で自由気ままに育った男児諸君が、悲しいまでの劣等感を覚えないかということだ。
(馬鹿馬鹿しい)
肩を軽く浮かせて、直は思ったのを率直に表した。紺色の短パンから突き出た脚で、砂利を転がして言う。
「いちいち嫌がらせしてるほど、みんな暇じゃない。馬鹿な女どもよりよっぽどマシ―ほら、また来た」
うんざりして直が髪を掻いた後方から、足早に真奈津が駆けてきた。朝顔模様の浴衣に、黄色の帯を締めている。三つ編みを解いた髪が波を立たせて肩まで伸びていた。
「白崎さん、こんばんは」
「こんばんは、真奈津ちゃん」
人のいい笑みを返す緋ノ里に、真奈津は浴衣の裾を握って深々とお辞儀した。学校とは態度の違いが甚だしい。妖怪七変化とはこの事だと、直は感慨深くなってしまう。
「お前まで浴衣」
緋ノ里に話しかけようとしていた真奈津は、直を一睨みした。
「いいじゃない。まだ九月だし、暑いし、可愛いし。ね、白崎さん」
「ねー」
真奈津と緋ノ里は声を揃える。
(大の男が白装束着て、あげくそれを可愛いと表現していいものだろうか)
もっともな直の懸念は、しかし今更なことである。
「あ、そうそう」
真奈津は人差し指を立てて、思いつきのポーズをとった。
「夕方、転校生君の親の方が来たわよ」
「やけにご丁寧だな。涼みに来ればまとめて挨拶出来るのに」
「夜は用事があるんですって。母さんが誘ってたけど、そう言ってたわ。でも噂の当人には会えなかった。連れてきてくれればよかったのに」
そう言って渋る真奈津に、緋ノ里が教えてやった。
「その子男の子だよ」
「白崎さんのとこにも来たの」
「うん、お昼にね。色の白い息子さんを連れて」
「そいつ真奈津なんかよりずっと美人だって」
「そう、私なんかより―ちょっと待ちなさい直!」
鼠と猫騒動張りに走り回る二人をよけて、緋ノ里は耳元の髪をわしゃわしゃと掻き、立ち上がった。その茶色い瞳が、僅かに下方に向けられる。
「ああ」
石の影に落ちていたそれを摘むと、バケツの上で指を離した。

ぽちゃん。

灰の浮かんだ水面が揺れた。極彩色の紙が沈んだ底は、万華鏡を覗いたようにゆらり変化した。



 気にするつもりはなかったが、やはりその日の朝方、教室はそわそわと落着きなかった。女子は予鈴が鳴っても席に着かず、複数で何やら密談している。直を含んだ男子全般からして見れば、末恐ろしい光景である。
「…馬鹿馬鹿しい」
誰に聞かれる間でもなく呟いたそれに同調して、生徒が二人、直の席をいつの間にか囲んでいた。一人は半淵の眼鏡をかけた小柄な体付きをしていて、もう片方は固そうな髪を刈り上げにした色黒の少年である。
「直もそう思うよな、な」
刈り上げ頭の少年―タキダはそう言って天井を仰いだ。密談が漏れて聞こえていたわけでもないが、肘を抱えて直の後ろに隠れるようにしている眼鏡少年―ミツの怯え振りからして、ろくな内容じゃないことは推測出来た。
「何考えてるんだろうね…あいつら」
押し殺したようなミツの声は、女子生徒の反感を恐れたためではなく、彼の性質上のものだ。タキダは半ば呆れ返ったように言った。
「珍しいのは分かるけど、あれじゃ保護動物扱いだぜ」
直は顎を手の甲で支える恰好で、教室に迷い込んだ蝿を目で追っていた。そんなことより暑くて仕方ないというように、右手で襟元をしきりに扇いでいる。
「なかなか可愛いらしいよ」
「なにっ、ほんとか」
「男だけどね」
ぐわああっと、タキダは唸った。「なんで人の嫌がること言うんだ」と、悶絶して顔を覆う。本気で期待したらしい。
「直…駄目だよ…タキはその手の冗談大嫌いなんだから」
(俺だって嫌いだよ)
直は眉を寄せた。苛立ちは昨日より増していた。教室が騒がしいなんてのは日常茶飯事だ。ましてや直は水を打つ役の一人なのだから、うるさいこと自体には何を咎めようとも思わない。だがこうも情が剥き出しな様を見せ付けられることには、我慢し難いものがあった。普段口を開けば女尊男卑の傾向がある女子に限って、こんな時の会話は色めいていて、平生を知っている直としてみれば喜劇に他ならない。
当然のごとく真奈津も輪に加わっているだろうと思いきや、少女は席について分厚い本を覗き込んでいた。
「えらいグロイもん読んでるなー…」
タキダは苦しんだり感心したりで忙しい。本の角がずれて、真奈津の顔が現れた。長い睫毛を瞬かせた目は兎のような愛くるしさを醸し出しているが、騙されてはいけない。背表紙には『食虫植物九七年版』と文字が連ねてある。
「野間(のま)さんの趣味…謎です」
ミツはマッシュルームを輪切りにしたような髪型で、その頭を直の後ろから半分出した。小さな鼻先に引っかかっているフレームに手をあてて、しげしげとその本を眺めている。直は今度こそ溜息をついた。
「真奈津…なんてもの読んでるんだよお前。珍獣届いてきゃぴきゃぴやってるあいつらの方がよっぽど健全だぞ。朝からうざくて堪らん、が」
ドンッ。『食虫植物九七年版』に押し潰されるよりも、直が手を引く方が半秒速かった。
「私は健全よっ」
(どこがだ)
直とタキダは間髪入れず反論した。本を閉じると、真奈津は手を組んでうっとりと、視線をあらぬ方向にさまよわせる。
「昨日白崎さんに聞いたの。ご趣味は何ですかって。そうしたら、近頃僕は東南アジアの植物に興味があるって教えてくれたわ。この本だって白崎さんが貸してくれたんだから。来たばかりの東京少年に熱をあげてる他の子達と、愛しい人のために努力を惜しまない私のどっちが健全よ。ほら、おっしゃい!」
大図鑑で頭を叩き割らんばかりの勢いに、タキダは首を振って怯えている。
「白兄…また遊んでる…」
力なく肩を垂れた直の言葉など、盲目中の真奈津に届くはずもなかった。
「―あ、そういえば」
外見の割に意外と冷静なミツが何か思い出したようだ。それまで参考図書を一心不乱に勉強していた真奈津まで、なになにっと耳をそば立てた。直とタキダも顔を見合わせる。
「なんだよ、ミツ」
「いえ、…なんでもないです。ちょっと父さんが言ってたのを思い出しただけだから」
真奈津は歯切れの悪い物言いに苛々したようだ。
「だから、それで?」
「その…だから、近いうち流星群がやってくると…。一夜に数十個も星が落ちるらしいですよ」
「隕石かっ?」
SF映画に目がないタキダは、拳を握って目を輝かせた。
「馬鹿、ただの流れ星に決まってるでしょ。そんなにたくさんの隕石が落ちてたまりますかってのよ」
こいつは白兄さえいれば、地球が二つに割れようが世界の人口が激減しようが一向に構わないんだろうなあと、思考の片隅で思いつつ直は尋ねた。
「それはいつ見れるんだ」
「十一月の中旬だそうですよ。雪もまだ降らないから、川原とか行くといいです。新聞とか…ニュースでも言ってました」
遊び盛りで時事に疎い三人が知る由もない。互いに目配せしてわざとらしく頷く。
「ふうん、白崎さんと見に行こうっ」
と真奈津。
「流れ星ってでかいのかな」
とタキダ。
「僕は親と行くよ」
ミツはどこまでも真面目だ。


―流れ星。


「直も来るだろ」
返事に詰まった。
「あ、ああ、たぶん」
曖昧なその受け答えは、始業ベルによってかき消された。雑音があとに続き、タキダとミツも席に着くために離れる。真奈津は本をしまう気すらないようだ。
始業ベルから数分遅れて、教師が教室に入ってきた。一時間目からお目にかかれるだろうと期待していた生徒達は、一斉にあれえっと声を上げた。黒板定規を持った数学教師が、自分が入るなり戸を閉じたからだ。水面下でどよめきが収まらない中、教師が一人「はーい、静かに」などと気楽なことを言うものだから、ついに生徒の一人が手を上げた。
「先生、転校生―いえ、新しくクラスメートになる人はどうしたんですか」
同じ学校に在籍するなら、いつまでも転校生呼ばわりは失礼だと判断したのか、その女子生徒は呼び方を変えた。この学校では朝礼などない限り、担任が授業も始まらないうちから教室に来ることはない。よって、一時間目を担当する教師が教室に案内してくると考えたのは、至って筋が通った話だった。教師はしかし、すぐに答えを寄越した。
「夏川(なつかわ)君は明日から登校すると聞いています。みんな仲良くするのよ」
教室に溜まっていた熱気が、急激にふうっと冷めた。直自身顔合わせは今だとばかり思っていたので、何やら気が抜けてしまった。

―もったいぶった登場の仕方をする奴だ―。
―出勤拒否だと?
―この不景気に、クビだクビ―。

意味不明な「どつき」が、さもしい心主である生徒の一部で囁かれている。真奈津が「つまんなーい」と口をへの字に曲げた。
「はい、もう授業始めるわよ。野間さんその大きい本しまって」





 「夏川」は昼時になってもやはり現れなかった。牛乳のビンを早々と空にしたタキダとサラダの人参をつついているミツと机を合わせ、直は黙々と味噌汁を啜っていた。
「なぁ、なほ。どおおほうひょ」
「おほうひょ?」
口に物を入れたまま話すので、直にはタキダの言いたいことがさっぱり通じていない。
「らーかーらー」
タキダはほとんど噛まずに呑みこむと、箸を置いて身を折った。まるで朝方の女生徒達のように擦れた声を出す。
「その夏川ってやつのことだよ。明日って話だけど、ほんとに来る気あんのかな」
「なんでそう疑うんだ?今日来るなんて、そいつから直接聞いたわけでもなしに。お前らが勝手に勘違いしただけだろう。明日だろうが明後日だろうが構うもんか。なんだってそんな気になるんだ」
またその話かという調子で直が言うと、タキダは鼻を擦って眉をひくひくさせた。
「そりゃあ俺だってこの雰囲気は好かねえけどよ、だって東京だぜ」
その隣でやっと人参を食べる決心をしていたミツが、恐る恐るそれを口に運び、ぐうっと苦しそうに喉を鳴らした。
「うわ、大丈夫かよ」
「…喉につかえた…大丈夫…タキ、君は東京を誤解してる」
「そうかあ?」
「そう」
漁師の息子であるタキダは日夜労働を手伝っていて、全身の肌が日焼けて黒い。おそらく県外に赴くことなど一年に数えるほどしかないタキダは、東京=月曜ドラマの大舞台、とでも考えているのだろう。経験的な情報が不足しているのは彼のせいではないのだが、タキダにしても真奈津にしても夢を見すぎる。
「とにかく、よく知らない奴のことを勝手に推測するな。それじゃあ馬鹿騒ぎしている女どもと変わりない。白兄だってそう言ってる」
はーっと息を吐き出して、タキダは両手を上げた。
「直は緋ノ里さんになついてんのな。真奈津もだけどよ。俺なんかが近づこうものなら本気で命が危ない。あれ見たか?食虫植物だかなんだか知らねぇが、朝からご苦労様としか言いようが無いぜ」
くわばらくわばらと、タキダは手を合掌させた。
「別にそんなんじゃない」
真奈津はともかく、自分は始終白兄にくっ付いているわけではないという自負が直にはあった。ただ買い付けの店が家のすぐ前にあって、出入りする回数が他の人より比較的多いというだけだ。馬鹿にされたのではないが、分別のつかない子供が手を引かれるような言い方だと直には感じられた。それで少しばかり険のある目付きをして返す。
「おっと、悪い。そんな目すんなって。―あ、ほら、理科の春日(かすが)だ。お前に用なんじゃないのか」
ごまかすようにしてタキダが指差した教室の後ろ戸に、白衣を着た長身の女性が立っていた。去年学校に移ってきた、若い教師である。いつも肩に掛かるくらいの髪をひっつめにしているだけで、白衣は薬品で汚れていることが多い。白いTシャツにジーパンという、お洒落からは程遠いなりをしているが、その辺が割と男子に人気のある理由なのかもしれない。
「高塔、ちょっといいか」
直が呼ばれたのは、昼休みに理科室に顕微鏡を並べておくためだった。教科ごとの担任には、雑用を手伝ったり連絡事項を伝えたりするために、生徒が二人つくことになっている。時間数の少ない美術あたりは学期ごとに争奪戦になるが、一般教養五科目については嫌煙されるのが常である。直はそれに負け、空欄に強制的に名前を埋め込まれたのだった。
「もう一人はどうした」
「コバは―あっ、いねえ。逃げやがった」
相撲取りの体格をした級友は、危機を敏感に察知して教室から消えていた。
「おい、タキダかミツ手伝え」
しかし肩越しの返事は実にそっけない。
「俺、数学の課題やってない」
「僕が教えるんだ…これから」
直は舌打ちして、別グループで給食をとっている真奈津に呼びかける。
「真奈津、どうせ暇なんだろ。手伝えよ」
「やーよ」
即答だった。どいつもこいつも友達甲斐のない奴等である。渋々食器を片づけ始めた直に、春日は「頼む」と言って白衣を翻した。なかなか寡黙な人だ。
「おーい、理科室行くなら俺の教科書も持っていってくれよ」
厚かましくもそう言ったタキダを、直は「お前が俺のを持ってこい」と一蹴して教室を出た。
理科室は別校舎内の三階にある。渡り廊下を越えた先の突き当たりに階段があり、それを上った角に位置している。体操着に着替えた二、三人の同級生が直を追い越していった。他の二クラスの次の授業が体育なのだ。
「急げって、遅れる」
坊主頭の少年が、慌てた様子で階段を駆け下りていく。昼食を食べて間もないのに走らされる運命であろう彼らに、直は少し同情した。土地の保有面積だけは無駄に広い学校だ。晴れているから、きっとグラウンドに出るのだろう。渡り廊下の窓から、もう何人かの姿が見えた。

それにしても―。

「流れ星、か」  
立ち止まった直の肩に、ガラス越しの陽(ひ)が降り注いだ。半袖の真っ白なシャツがほどなく熱を帯び始め、肌に汗がじとりと浮かぶ。日陰に逃れる外の生徒らは、母親の容赦のない抱擁を嫌がる赤子に似ていた。愛されて止まない彼ら。もういらないと泣く子供。期限付きであるなら、その日を待って諦められるのに。
「…やめ、やーめ」
己の思考を遮断し、直は体を動かせた。
階段を上り、第一理科室の戸を引いた。まだ誰もいない。一列に四人ほど並べる机が、左右を合わせて八列ある。カーテンを引いて大窓を開けると、埃が風に舞った。学校の怪談ではよく人体模型が夜走ったりするが、幸いここにそのような物は置いてない。春日に「そんなの今時あるのか」と逆に問われたことがある。確かに無駄に怖いだけだ。人体の神秘を知りたいなら参考書でも見ればいい。あえて言うならば恐怖心をくすぐるのはそんな物ではなく、今この場に誰もいないという現実である。
直は水道の下の引き戸に指をかけた。そこに顕微鏡などの器具がある。薬品などの誤って事故を起こしかねない危険物は、隣の第二理科室に収納されていて、そちらの方は普段鍵が掛かっているはずだ。さっさと終わらせよう。中を見ようと身を屈めた。

かたり。

はっとして直は振り向く。しかし誰の姿もない。風に煽られた黒いカーテンが、頭上で踊っていた。

―きき。

鉄を擦るような金属音に、肩の産毛がざわりと立った。直の視線は引き戸から鋭く後方へ移動し、正面の黒板からゆっくりと右に逸れる。この理科室は、ビーカーなどの備品をしまう小部屋とドア一枚で繋がっている。どうやら音はそこから聞こえてくるらしい。
「誰か―いるのか」
返事はない。教室の静けさと比例して苛立ちが募る。人間は全ての現象に理由を欲しがるものだ。林檎が地面に落下する、隣のクラスのデブで意地の悪い奥村が学年一の美人に振られる、日は昇り月はいつも霞むように消える―どんなに抵抗しても、どんなに頑張っても、変えられないことがある。その場合、後に起こる事象は全て、予め定められたものでしかない。そうであるのが当たり前すぎて、その可否を問うことすら出来ない。ああ違った、奥村は外すべきだろう。あいつは変わろうと思えばまだ余地が残っているのだから。
ぬるい風に顔を撫でられて、飛翔しかけた思考が照準を合わせて舞い戻った。頭を振って、黒板の右に据え付けられているドアに近付く。直は妖怪などの類について、その存在自体を否定している。そこから派生するものがないからだ。驚かせて恐怖させて、それで何になる。そうすること自体が目的だとしても、目に見える結果が残らないのでは意味がない。面白半分の噂が数ヶ月流れ、いつか風化するのを繰り返すぐらいなら、学校を乗っ取って昼も夜も本拠地にすればいい。そうすれば彼らの存在は、この物質主義の世界でも認知されるだろう。しかしそんな事例は一度も聞いたことがない。代わりに、曖昧な情報によって形作られた、お粗末な作り話ばかりが氾濫している。奴等が単にものぐさなのか、それともその存在自体が嘘なのかを証明する手立ては無いが、どちらにしろ、己の怠惰から存在放棄をしたというのなら、そんなものを認めてやる気は更々ない。よって、いないと断定したものに、直が恐怖心など覚えるはずがなかった。内臓をかき混ぜられるような気分の悪さ―それは小部屋に潜んでいる誰かに向けて発せられていた。一人でいる自分を驚かしてからかおうとしていると、寸座に直は思った。短絡的な、怒りにも似たその感情を足音にあらわにしながら、直はノブを掴んだ。
「誰だっ」
凄みを効かせた声が、ドアを開くなり小さな物置部屋に響く。すぐにでも詰め寄ろうとしていた直は、しかし桟を踏んだ格好のままその場に固まった。長い円筒が宙に浮いていた。いや、正確に言えばその中央にはちゃんと支えがあったのだが、直の注意は円筒の先端に埋め込まれた透明なレンズに向けられていた。望遠鏡だと分かるまで数秒も費やしなかったが、無機質なその巨大な瞳が、飛び込んだ直を見上げるように直視したために、その先に続けようと思っていた言葉を全部忘れてしまった。
直と同じ黒い制服ズボンにくるまれた見慣れない屋内靴が、支柱を挟んで八の字に開いていた。鏡筒に当てた指を緩く離し、屈んでいた身を真っ直ぐに伸ばす様子は、まるで精密機械のような正確さを感じさせた。顎を引いた優しげな顔。茶色の瞳。彼は言った。
「―君、誰」





『たとえば君が、』より、〜P23抜粋。