―四人の天女―


ある、うららかな、
あぁ、それにしても、うららかとは、
なんとも、その響きといい、字面といい、
そのありさまの、そのものなのでありましょう、
とにもかくにも、そんな、言葉のそのとおり、
うららかな、春の日のことで、ありました。


 鳥が、囀ります。
おおきなものは、大きな声に
ちいさなものは、小さな声に。
ちぃちぃちぃと、ひょろ、ひょろと。

花が、咲きます。
梢のひとつひとつにも、野畑にも、
路傍の草の、間に間にも
誰の目にも、きっと生涯触れ得ない、
真っ逆さまの崖の縁
そんな狭間、はざまにも、我先にと、
いや、我の先よ、と、まるで
競ってでもいるかのように、
色あいと、彩りはと申しますと
それらは正に、さまざまに、
千代紙を、ちいさく指で千切っては
それらすべてをふうわりと、風の吹く谷あいに
大きくかいなを広げては
撒き散らかしたかのようでありました。

ふと見ますれば
そんな梢の、一分、三分、七分と開く
はなびら乗せる、枝のところどころには
永遠とも思われた、睡りのあとに
ぼんやりと、顔を出したはいいけれど、
なんだかまだ、自分がどこにいるのかも
判然(はっきり)しないように、むぐむぐと
ふと、立ち止まっては、確かめるように、頭(こうべ)をあげて
また、むぐむぐと、蟲が、動きます。



 川には、一時(いっとき)、雪解け水に、
少しは嵩も高くなり、ざぶん、ざぶん、と、大声を、
上げて、流れもしていましたが
今は、それらもおさまって、ゆうるりと、ゆうるりと、
糸遊(いとゆう)とは、よく云うたもの、
正に、白の絹糸の、遊ぶように、陽炎の、
あちらやこちらにも、ゆらと、立ち上がる、なかに、
やわらかな光を浴びて、流れます。


 あぁ、やわらかなこと、やわらかな。 
それらはすべて、霞雲、その、お陰であるのです。
天空の、先をも知れぬ、高い、高い、
そちらの方から眺めれば、実のところは随分と
それこそ、目も眩む程の、下方になるのですけれど、
真綿を、薄く、薄ぅくに、のばしたように
どこまでも、覆いをかぶせているものですから
それどころか、霞ときたら、その雲の、粒をまるで、御簾のように
底ははるかの、地に届くまで、垂れ下げているものですから
さすがのお天道様の、自慢の熱と、ひかりの束、
どちらもが、遮られ、ゆらり、ゆらりと、御簾に乗り、
ようやくに、地にふりそそぐのでありますから
そういうわけで、あらゆるものが、やわらかに、うららかに、
そんな、春の日のことで、ありました。


 先程も、申しましたように、
川が、流れております。
大河と、いうほどには勇壮でもなく
清流と、いうほどには華麗でもない、
鬱蒼と、木々生い茂る、対岸まで、泳ぎ切るには
大の大人にも、ちょっとした勇気の試される、
そのくらいの川幅で、
深さと云えば、こちらもまた、
特に、川の真中あたりにくれば、澄み切った
水も、深い青緑に、底を隠して、いずこまで。
右を見れば、恐ろしいような、断崖絶壁に、背中の景色を遮られ、
その合間、流れ来た水は、次には一体、どこまで流れゆくのやら
左を見れば、ゆるやかな湾曲を描き、その先は、
霞に沈んで、只、行く水の、音ばかりが
残響となり、こちらへと、届くばかりであるのです。

 そんな川の、こちらの岸辺に、
川面の方へと、随分と、出っ張る形の
美事な巌(いわお)が、ありました。
その巌ときたら、どうしたわけか、表面が、
悠久の、かなたの昔、人の手に、磨きをかけられたかのように、
流石に、今となればもう、光沢を帯びるように、とは、いきますまいが、
それでも、やはり、滑らかに、平坦なのです。

 その巌のうえに、晴れた日には
いつも、ひとりの、男の姿が、見られたのでありました。

 竹竿に、餌となる蚯蚓(みみず)を針に、差した糸を結わえ
それをぽおんと、出来る限りの遠くに投げれば、
あとはただ、筵(むしろ)を敷いた、その上に、
胡座をかいて、待つばかり。
よく見ますれば、腰元に、荒縄が、くくりつけてあり
その先は、川面に沈んだ魚籠(びく)へと続き
釣れた獲物を一匹、二匹、
そうしてその重さの故に、
川の流れに、体躯を、持ちゆかれそうになれば
それにて、その日の漁は充分、と、
そういう訳であったのです。

 男は、川岸の、すぐ傍にある、荒ら屋に住み
その横に、こうして釣った魚を捌いて、干魚に、
どこからともなく集まってくる、
おおかたは、人の勝手に捨てられた、
野犬におこぼれを、惜しむような真似もせず、
狼たちや、熊たちは、男の持つ、顔にかけられれば
目も鼻も、痛くて痛くて一日中、涙と鼻水の止まらない、
全くひどい不思議の粉の、怖さを存分に、知っていますから、
余程のことがなければ、手出しもせず、
余程のことがあったであろう、場合には
自らの、命を残してくれさえすれば、と
出来るだけには、高価な唐辛子の粉を、使う事もせず、
そうして、市のたつ日には
一里半近くも、ぶらぶらと、荷車に、出来上がった干魚を乗せ、
希には懐かしい、顔に出会えば
酒、酌み交わして、時をも忘れ、
また一里半を、今度は干物を、売った金子にて、
求めた書物や、あれやこれやを、荷車に。
雨の日には、
雨露の、体躯を濡らさぬ場所を、選り選って
書物に、日がなを費やして
嵐や吹雪の、その時には、
小屋なれば、また修繕に、それでも間に合わないならば、
また一より、建て直せば良いこと、と、
時にはどこから来たのやら、飛び込んで来た、
水を怖がる、野良の猫などと共に、厚い布に、身をくるめては
只、ひたすらに、通り過ぎるのを待ち、
そのように、そのようにして、日々を過ごして来たのです。


 今日もまた、そんな日々と、何の違いもない、
只、うららかな、春の、日でありました。
お天道様の、道筋と、今おられる場所を、見ますれば
ちょうど、真昼の頃で、あったでしょう。

 いつものように、うつら、うつらと
微睡むように胡座をかいて、釣りをする男の姿、
それを目指して、
ゆらり、ゆらりと、ふわり、ふわりと、
はなびらの、らせんに、舞うように
天より、下って参りましたのは、
なんと、天女であったのです。
しかも、ひとりではなく、
ひとり、ふたり、三人、四人、
ふわり、男を、取り囲むように。

 「はぁ?」
思わず、男の口から、言葉とも、ただの音とも、
区別のつかぬ、奇妙な声音の漏れたのも、
責められよう筈もありません。

 梟(ふくろう)であれば、ひとひねりに済むものも、
人とあれば、そうもゆかず、
男は、首を捻って右から左に、目線を上から下に、
それぞれを、ゆうっくりと、一往復。
天女たちは四人が四人、男の目には、
全く何処にも、違いの、認められないのでした。
天衣(てんね)の羽衣は
その、白磁のように真っ白く、
白磁のように艶やかな、
ただ、白磁であれはこうもいかない、
弾くかにふくよかな、
両の腕に、しかと巻き付いてはいるけれども、
余程、天が恋しいかのように、
真中ほどは、ふわりふわりと、
髷を結いたる頭ひとつ、ふたつも上にゆらめいて、
それこそ、まるで霞のように、
半透明に白銀の、筈が、なんとも不思議なことには、
きらり、きらりと、虹のように、
様々な色を見せては消え、消えては見せてを繰り返し、
また、何よりも、
うっすらと、微笑みを、浮かべておられる御顔ときたら、
書物に巻物に反物に、また壁に、
描かれた、そのどれとても、足下にさえ及ばない、
眩くも、神々しい、美しさなのです。

 「……あ〜……。」
ちゃぽん、と音をたて、
仕様事もない、と云った風情に、竹竿を引き上げ、
脇に置きます。
「悪いんだがな、その、足をな、地に付けてくれんかな……?
……いや、こう、どうも、落ち着かん。」

そうなのです、天女たちときたら、
天より、舞い降りて来たままに、
やはり白磁の、そうしてやはり、そうでない、
眩いばかりに輝くような、足先を、珊瑚のような、爪先を、
巌の上より、三寸あまり、
ふわりふわりと、空に浮いたままなのです。
それどころか、実のところを申しますと、
その御姿、時に、うっすらと透き通り、
あちらの景色が、それこそ御簾の向こう側
そのように、見え隠れする、有様でさえ、あったのです。


四人の、いえ、正しくは、
天女は人ではありませんから、
この表現はさもおかしいのですけれど、
天女の数量単位など、到底誰にも、知り得ない、
ところだろうと思いますので、とりあえず、
四人の天女は、と、申しましょう、
──そう、時に臨機応変はとても重要です──
思わず顔を、見合わせるのですが、
その表情は、降りて来た時、そのままに
ただ、やわらかく、幽かに微笑むばかり、
そうしてその、一体、どこからかさえも
判然しないのですけれど、
これもまた、えもいわれぬ、只、
名も知らぬ花のような、また、花には到底、及ばぬような、
かぐわしき薫りの、ほのかに、漂い来るのです。

 「此は無礼を、何卒に、許されたく。
我ら、本来なれば、そも、此地に参るさえ、許されぬ身。
此処までが、精一杯故に。」
これがまた不思議なこと、
天女の顔より微笑の、全く消えることもなく、
つまりは口を動かす気配も、
閉じられた唇の、全くひらく事もなく、
それなのに、それは紛うことなく、声となり、
男の耳に、或いは脳に直接に、
どちらにせよ、これもまた
この世のものとも思えぬ、透き通るばかりの
沁み入る声音に、響くのです。

はぁ、と、男の溜息が、ひとつ。
「そうならそれで、仕方もないが、何だってこんな処に。」
「おや、やはり御存知無い。」
意を得たように、微笑みながら
天女たちは、顔、見合わせます、先と全く、同じように。

 「此の岩盤(いわくら)、大層の昔より、
天神聖者(あまのまれびと)様の御座所。
ふとした手違いにて、此処、底たる地に。」
「地に墜ちて尚、永きに亘り、崇め奉られたるも昔、
今や此の有様。」
「其処に不図、見れば、日毎、現れる者有り。」
「二年、三年、数年経てども、止す気配も無く。」
「崇め奉りこそせねども、見ればまた、欲の無さ気な。」
「まるで守人のよう。」
「此処はひとつ、褒美を、と。」
「そうそう、ひとつ、褒美を、と。」
最後は四人の合唱です。

 「はぁ。」
男はあらぬ方を向き、呆れ返ったとばかりに。

“そのような、謂われなど無論、露知らず、
しかも、活計(たつき)の為とは云え、
この上に、殺生まで繰り返しているのだから、
罰与えようと云うのなら
あながち理屈からは、そうも、外れているとも思えぬが、
さて、天上の方々の御思惑は、地上を這う
我々とは随分と、かけ離れてもいるらしい。”

「この俺に、ご褒美下さる為のみに、わざわざ天上より。」
「但し、願い叶うは、ひとつのみ。」
「そうそう、只、ひとつのみ。」

 「……そういう訳か。」
男は、ひとりの天女に向かい、
じっとその、一体、何色と表現すれば良いのでしょう、
これもまた、虹のように次々と、光の乱反射のように、
色を変え行く、瞳を見つめて、切り出します。
「では、まず、こちら様からお話を。
あんた様は、俺に何を、して下さる。」

 「御身、宙に浮かせ、飛ばしみせよう。」
相も変わらず、微笑みながら。
「但し御身、人の身故に、飛翔に極めて不向き、
故にてこの岩盤ごと、飛ばしみせる故、
御身は此処に、只、座するのみ、
御好みの場所に、御連れしよう。」

 ……人は駄目だが岩盤なら、と、
その理屈にも、今ひとつ、合点もゆかず
悪戯っぽい笑み、ひとつ落とし、
「それじゃあ、下行く者は、さぞかし驚くことだろうな。」
「さて、其れは我、与り知らぬ。」

 ふぅん……と、男は、一間を、置きます。
「止しておくよ、天女さま。」
「此はまた。故などあれば、聞かせおくれ。」
「確かに俺は、空を見上げ
あぁ、あの鳥のように、蝶のように、飛べたなら
世界も随分違って見えて
今、見えないものも、好く見えて
反対に、今、見えるものは、好く見えない、
そんな違いもあるのだろうと、よく、考えは、するけれども。
つまりはな、こういう事だ、
宙に浮き、飛んだが最後、
天高く、地を下に、見下ろしたが最後、
もう俺は、人じゃぁなくなるように思う。」
霞に削りをかけられたような、空を見上げて。


 はぁ、と、ひとつ、天女の口から、
溜息の漏れたようなは、見間違い、
聞き間違いで、あったでしょうか。
「では、我の番よの。」
二人目の、天女の声。
「あぁ、あんた様は、俺に何を、して下さる。」

「此世のあらゆる、玉(ぎょく)たる玉、
金剛石、柘榴石に、瑠璃、孔雀石、月長石、
御身欲しいままに与えよう。」

 「玉か……。あれは、美しい。」
男が、川の対岸の、それよりもっと、
遠く遠くに、視線を遣れば
川の、魚の、ぽちゃん、と、跳ねます。
「思い出すな。まだ、邑に居た頃だ。」
相変わらず、視線は、対岸の、そのまた向こう。

 「じいさんが、寝込み初めた頃だから
恐らくは、十を数えた、その後だったな。
邑に、見せ物の、大一団がやって来て、
その目玉、って奴が、藍玉だった、
その大きさたるや、世界第二位、
世界一は、さる国の王妃のもの、と
ふれこみの、呼び声の、声高に、
実際に、当時の俺の手の、親指位は、優にあって、
黒漆に螺鈿、施された、細工の箱の、蓋を開け、
真っ白の、真綿、敷き詰めた、
そのなかに、たったひとつ、後生大事に、置かれてあった。
仕切りの縄より、少しでも
身を乗り出そうものなら、見た事もない、
狼程もある、巨大な犬が、うう、と、唸って牙、剥いた。
こんな辺鄙な、しかも小さな邑への興行、眉唾物に違いない、
そう云いながらも、湖のような、空のような、
吸い込まれそうに鮮やかな、薄い青の、そのいろに、
誰もかれもが、それこそ夢中、押すな押すなの、大入り満員さ。
かくいう俺も、一度見たら、もう、虜だ。
家では、玉の話ばかり、
どうしても、もう一度、この目に、と、
小遣いを、掻き集めるのに、苦心惨憺していると、
その内、じいさんが言い出した。
“そんなにも綺麗なのかい。”
“あぁ、じっちゃん、じっちゃんに、
見せてあげられないのが、俺、辛いよ、悲しいよ。”
“わしならいいよ、それよりな。
次、見に行くなら、その時に、周りの者の顔と顔、
じっくり見て来るがいい、なあ、わしの、
たったひとりの、可愛い孫よ。”
そう言って、俺の手に、ぎゅっと、小銭を握らせた。
何のことやら、分からなかったが、
じいさんの、云う事なら、と、
次、見に行った、その時に、忘れぬように、
周囲の人に、そっと、目を遣った、
途端、心底に、ぞっとしたよ。」

 「そういう訳さ。
だから、止しておくよ、天女さま。」

 相変わらずの微笑みを、絶やさぬままに
それでも、天女は言うのです。
「どうも良く解せぬのだが。可ければ
先を、聞かせておくれ。」

 「つまりな、天女さま。
皆、魅入られていた、そういう事さ。
玉には、それだけの、力がある。
眉唾の、見せ物の、興行師の持ち物でさえ。
俺は、あんなにぞっとした事は、一生の内、そうはない。
皆が皆、ただ一心に、ひとところに、
向ける瞳は、きらきらひかる、水色の玉を映すだけに、
中身は何にも、ありゃしない。
魂抜かれ、持っていかれて、上の空さ。
魔性よ、あれは、あの力は。
それでも、持ちたいと、所有したいというのなら、
それ相応の、魔力に負けぬ、力がなけりゃ。
……俺には到底、ある筈もない。
そういう事だ、天女さま。」


 はぁ、と、ひとつ、天女の口から、
溜息の漏れたようなは、見間違い、
聞き間違いで、あったでしょうか。
「では、我の番よの。」
三人目の、天女の声。
「さぁ、あんた様は、俺に何を、して下さる。」

 「其の前に、一つ訊かせてくれようか。」
「無論よ、天女さま、俺に答えられる事ならば。」
「御身、齢、幾つを数える。」
「さぁて。」
思わず、瞳を上に、額に皺寄せ、
まるで、子供の仕草のように。
「じいさんが死に、その後、数年、突如、猛威を振るった流行病に
親父とお袋が相次いで、その後、許嫁までもが斃(たお)れ、
ただ、俺のみが、漸(ようよ)う、命、生き存(ながら)えて、
天涯孤独の身となれば、
そりゃあ、寂しさも、悲しさも、
なくは、ない筈がない、けれどもこれは、仕方がない、
疫病(えやみ)の、拡大を怖れ、
遺体は全て荼毘に付し、そのまま横の大穴に。
堆(うずたか)く、積まれた盛り土に、掌、合わせ、
終(つい)を迎えた邑に、数少ない、生き残りの者、
皆で、火を点けて、あとかたもなく、
そうして独り、自由、それだけを手中に、流浪に出た。
それが、忘れもせぬ、十八の時。
さぁ、それから、旅から旅、恥を晒すが、
年月を、数える事さえ、止してしまったものだから……。」
わさわさ、と、大きな手で、頭を掻きむしれば、
今の、佳き季節ともなれば、三日に一度、
川の浅瀬に、沐浴を欠かさぬ身、
邪魔になる、長さになれば、無造作に、
ざくざくと、切られるばかりの、艶やかな、
黒髪が、さわさわと、吹く、春の風になびきます。
「それから、まぁ、だいたいだが、
同じ位の、年月が流れたよう、感じている、
それというのも、俺は、親父の、三十五の時の、
遅く遅くに授かった、一粒種だったそうだが、
餓鬼の頃の、思い出す、親父の有様と、
今の自分は、どうやら随分似通っている、
そう、感じる事の、最近は、特に多く、なって来たものだから。」
「成る程に。」
「答えがもし、満足のいくものであったなら、
あんた様は、俺に、何をして下さる。」

 「不老不死に。
御身、御好きな年齢に、御好きなだけ。」

 「……確かにな。」
脇に、引き置かれた、一本の竹竿の、針の先、
最早とうに事絶えた、餌を指に、摘み取っては、
川に、ぽちゃん、と。

 「死は怖い。
こればかりは、綺麗事には、済まされぬ。
こんな俺でも、死線、彷徨った事もありゃあ、
済んでの処での命拾いなら、両手に数えて、まだ足りぬ程、
その時の、心持ちと来たら……。
全くに、己の弱さがここまでとは、と、
後になればこそ、恥じ入る余裕も、生じはするが。」
上空に、あれは鳶でありましょうか、ひょろろ、と、
声高に、一声の。

 「老いも、そうだな。
じいさんを、看たからね。
目は疎く、耳は遠く、歯は抜けて、ものさえ思うに食べられず、
痛みとこわばりに、我の身体であるのに、と、寝たきりに、
野良仕事に忙しい、父母の代わりに、つきっきりで世話をした。
病も痛みも、なってみなくちゃ本当の、
辛さは、分かりもしないだろうが、
それでも毎日、傍に居りゃあ、
ほんの子供でも、そりゃあ、少しは感じもするよ。」

 「げに、死と老い、此こそが
御身共、此の世に生きとし生けるものの、
逃れられ得ぬ、一等、悪しく苦しき運命(さだめ)。」
「確かにそうだ、その通りだよ。
だから、やっぱり、止しておくよ、天女さま。」

 「何故(なにゆえ)に。
良くば、理由(わけ)を話してくれぬか。」
相も変わらぬ微笑みを、優しき御顔に、浮かべたままに。

 「俺は、じいさんが好きだったよ。
たったひとりの可愛い孫と、いつも俺をそう呼んだ。
でも、そればかりが理由じゃない。
じいさんは、ひどく物知りだった。
いや、学者でも、なんでもない、
どこにでも居る、そこらの年寄りと、
なんら、変わることのない。
聞けば、生まれてこの方、邑より一歩も、
出た事さえも、なかったとか。
それでも、
この時刻、雲が、この早さに、あの方向に流れてゆくなら、
明日は、かなりの東風が吹く、
じいさんが、そう云えば、必ずぴたりと、そうなった。
腹の中の、仔は逆子だよ、と、
馬の腹、さすりながら言えば、難産に、
備えたお陰で、母仔ともが、無事に済んだ。
書物をよく読み、いろんな話を、聞かせてくれた。
じっちゃんは、ひどく物知りだね、そう言うと、
何、この年齢まで生きていれば、普通のことさ、と、
皺だらけの顔に、また、何本もの皺を刻んだ。
あぁ、醜かったよ、皮膚は、陽に焼け、皺深く、染みだらけ、
目は濁り、髪は白くに、また抜け落ちて、
重労働に、関節は、どれもこれもが、木の瘤のようで。」
ひょろろ、また、鳶が啼きます。

 「腎の病は、ますますひどく、
痩せさらばえて、夜昼なくに、苦しみ呻き、
それが辛くて、耐えられなくて、
じっちゃん、じっちゃん、苦しまないで、
どうか、どうか、死なないで、と、泣いてすがれば、
無理を言うものじゃないよ、たったひとりの可愛い孫、
生き物はみな、こうして苦しんで、死んでゆく。
じっちゃん、怖くはないの、死ぬのは怖くないの、と、問えば
怖いさ、怖いよ、たったひとりの可愛い孫、と。」

 「故、其の流れより、掬うてやろうと。」
天女は、やはり、微笑んだまま。
「違う、違うよ、天女さま。」
筵に、手をやり、むしり、むしって。
「生き物の、誰も何もが、苦しみぬいて死ぬのなら、
そこから逃れてしまうという事は、
それはもう、生きていないという事だ。
……なんだか、話がややこしいが。」
ふふ、と、男が笑います、潤みを帯びた黒い瞳、
ほんの少し、落とすかに。

 はぁ、と、ひとつ、天女の口から、
溜息の漏れたようなは、見間違い、
聞き間違いで、あったでしょうか。
「……では、とうとう最後、我の番よの。」
とうとう四人目の、天女の声。
けれども何処か、浮かぬ声に聞こえたのは、
またこれも、何かの間違いに、あったでしょうか。
「あぁ、あんた様は、俺に何を、して下さる。」

 「さて、此となれば、返事を待つのも愚かしいか。
ともかくは言う、我、此世の理を、伝授しよう。」

 初めて、男は顔をあげ、
そう言った、最後の天女の、それは美しい御顔を、
見ては、にこりと、笑みを浮かべるのですけれど、
その笑みの、一体何と、表現すれば、良いのでしょう、
強固な、頑たる、意志のなかに、
まるで、世の哀しみを、露わにしたような。

 「天女さま。そのとおりだ、止しておくよ。」


 気のつけば、あれよあれよと、言う間もなく、
四人の天女の姿は、くるり、らせんを舞い舞って、霞が雲の上、
あぁ、もう、あんなにちいさな、点となり、
すぅと、掌の上の、雪ひとひらのように、消えゆきて、
あるのは、ほんの幽かな、余薫(よくん)の香しさ、
只、そればかりであったのです。


 「何と、我らの賭、勝つ者無し、とは。」
「無欲な事、此上も無し。」
「天神聖者様の、御告通り。」
「あれ、天神聖者様は、瞑想の御最中では。」
「如何にも、しかして、此世の理の、伝授については
流石、天神聖者様の、御許可の無しには。」
「瞑想中にあられても、我等の思考等、筒抜けと。」
「真、畏れ多い御方。」
 正に邪気のない、鈴の音の、木霊のような、声々に。


 “天女さまの、ご来訪とは……こともあろうに。”
ふう、と、ひとつ、微笑みまじりの溜息を、
落としては、何事も、なかったかのように、
男は、生き餌となる、蚯蚓を一匹、小篭より、
手慣れた手付きに、取り出せば、
ぶすりとそれを、竹竿の、針の先に、
刺したかと、思えば、蚯蚓の、びくり、と、身を悶え、
それから、そおれ、と、川中に、ぽちゃり、と、投げ込めば、
銀とひかりを反射する、水面(みなも)のうえに
ちいさな雲珠(うず)が、ひとつ生じて、
生じた途端、その姿、ゆるやかな、
流れのなかに、散じます。

 ふと気がつけば、あれ何とも不思議なこと、
少なくとも、一時(いっとき)は経ったと
信じ込んでもおりましたのに、
お天道様の位置をと見ますれば、先程と、
寸分も、変わらぬことではありませんか。
 
“全くに、天女さまとは、それこそが、
私利私欲などとは無縁の御存在、恐らくは、無欲の権化。
事もあろうに、この俺に、欲の無さ気な、などと。
世に数多ある、生あるものの、目的だの、目標だのと、
名を変えた、欲に身を任せぬに、
生きてゆけぬは、恐らくが、人、それのみではあるまいか。
そのなかに、あっても俺程に、欲深く、
欲にまみれた人間など、恐らくそうは在るまいに。
旅、また旅の、恐らくは、十年あまりの歳月に、
知り得た事と、言えば、桃源郷など、何処にもない、
それならば、世の理の、ひとつでも、ひとつでも多く
肌身に感じ、知恵と為したい、そんな、強欲に取り憑かれ、
正に一石二鳥と、蚯蚓の、魚の命を、獲りながら、
日がなを、只、竹釣り竿下げ、筵を敷いた巌の上、
胡座をかいているというのに。”

そうすれば、微笑こそ、その表情に、居残りはしますれど、
瞳のなかに、きらり生じた、一点を、みつめ、逃しもしませぬ、
それは、まるで、獲物追う、狩人のような、
また、一方には、正に、狩られる、獲物、そのものの、
言い様もない、あはれのような。


 うららかな、ある、うららかな、
春の日のことで、ありました。
けれども、春は、目覚めの、
胎動の、蟲動のときでも、あるのです。

 男は、感じていたのでありましょう、
ひとつの命、産声を上げれば、ひとつの命、露と消え、
霞の、陽炎の、目眩まし、睡り誘う、陽の暖かさ、
そのなかに、蠢く、もの、あらゆる、事象を、
川面たつ、波のひとつ、色のひとつ、風のひとつに、
対岸に、見えては隠れ、そよぎに揺れる、緑の深さに、
飛ぶ鳥の、羽ばたきのなかの、その音に、
釣り上げた、魚の鱗の、輝きに、
咲く花の、花弁の色の、初(うぶ)な淡さに、
全神経を、皮膚の上、一心に集中し、
体躯の、こころの、芯の芯にて、
春、それ、そのものを。


 “至福、ありがたき。”
陽の、西に傾いて、吹く風に、
過ぎたる冬の、名残りを乗せ来る頃、
あれ、ようやく一匹、釣り上げられて、
今日の漁は、どうやらもう、お仕舞いの様子です。


 陽の翳りは刻一刻と、夕の帳はせわしなく、
今や巌の上に、人影もなく、ただ、川の、水の、
ぼやりと傘差す、月の光の、そのもとに
色深く、立つ波の、頭のみを、きらと、光らせて、
さわさわと、流れゆくばかり。


 こうして、うららかな、春の一日は
終わりを告げたのでありますけれども、
さて、明日は、どんな日と、なるのでありましょう。
また、今日のように、うららかな、
さて、それとも、それともに?
それは、それこそ、天神聖者様のみぞ、御存知の、
恐らく、そうでありましょう、
いいえ、それとも、それともに?


-end-



written by Ms. moon in the dusk様サイト.四周年記念作品