凪語り
 


ざん、ざん、と波のおと。
寄せてはかえす波の音。
那由他(なゆた)の数を、恒河紗(こうかしゃ)の数を
数えかぞえて昔、昔の物語り。



水無月の朝靄立つ凪の浜辺を
その童女は歩いていた。
身につけるもの何もなく
まばゆい朝光をうけとめる
髪に深い緑のいろをのせ
ぴちゃりぴちゃりと裸足のあしを
波打ち際に遊ばせて
どこへゆくともなく歩いていた。


遠くにそれを見た村人は
急ぎ近付きまずその髪に
そうして次には同じ色した瞳に思わず声を失う。

わだつみの恩恵薄い貧しき漁村。
ひとりの童女養えば一家の足元を掬われかねず
気の毒に、可哀想にと胸が詰まりはすれど
ただ同じ年頃の着物をかけてやるばかりに
村人の誰もが “我が” と名乗りを上げない。

そのうちひとりが思いつく。
あれはつい三月(みつき)ほど前のこと
ひとりの老いた僧が
村はずれの小高く緑深い断崖の先端の
荒れ寺に住み着き出していたじゃあないか。
これも何かの縁続き。
童女はこうして僧のもとに。

言葉の話せぬ年でもなかろうに
優しき皺を刻ませて
僧が何をたずねても
童女はちいさな鈴のような声に
ただ 「しいら」 と言うばかり。
そういう訳で童女は “しいら” と名付けられる。

僧の出す食事や果物を前にしても
しいらはただちんと座るばかりで
そのどれにも手を出さない。
やれ困った、何なら食してくれるのだろうと
微笑みかけた僧の目前
庭にちいさな池の中
撥ねる鯉を深緑の瞳が捕らえた瞬間
雷光のようなすばやさで
立ち上がり池へと走りゆきたかと思えば
次瞬には鯉は無惨
その身の下半分を
しいらのちいさな口から覗かせて
尾をぴたぴたと血まみれの
しいらのあどけない顔に
あててはもがいているばかり。

これは……何ということよ。
あぁそう云えばありがたい
熊野の湯をいただいた折り
そんな話を聞かされた。
外国(とつくに)への長い航海の度
その怒りおさめる贄にと生きたまま
大海神(おおわだつみのかみ)おわすという
海底(おぞこ)へと身を投じさせられた
処女(おとめ)の数かぞえも切れぬと。

熊野よりの戻り道
何ゆえかは己にも理解せぬままに
まるで呼び寄せられるかに
この場所に引き留められ住みつく事とあいなった
ここはまさにその海路の近く。
それも縁(えにし)やも知れぬ。

しいらよ、そなた
あはれ若き命を散らされた
処女達の化生(けしょう)なるか。
あはれなこと、あはれなこと。
今こたびこそ人の世に終生(しゅうじょう)までもを静かに暮らし
その魂(こん)よ魄(はく)よ
弥陀の導く極楽浄土に。

「来渦(らいか)よ。」
僧は使いの少年を呼ぶ。
漁師の倅に生まれつきながら
水が恐く波が怖く
それゆえわだつみに近寄れもせず
“薄らの来渦” と皆より嘲笑われ
またそれゆえかの童女とみまごう見目麗しさに
親より稚児にと売られゆこうとしていた処を
残る路銀その他金目の物
全て与え引き取った。
年の頃ならしいらより
五つばかりは上であろうか。

「のう来渦。
 この童女は “しいら” と云うてのう。
 ゆえあってお前と同じくここに引き取る事にした。
 だがのう、来渦。
 この童女はただ生魚より口に出来ぬ。
 知ってのとおりここは精進の場。
 生き物の血に穢す訳にはゆかぬから
 隣にこの童女の暮らす小屋を
 建ててやろうと思うのだがな。」

それは “薄らの来渦” そのゆえか
生きた魚を喰らうと聞かされて尚
動じる気配の微塵もなく
「うわぁ、おにんぎょうさまみたいにかわいいの!
 それになんてきれいないろのかみとひとみ。
 ねぇ、しょうにんさま。
 おれがなんでもやるからね。
 このこのいえはおれがぜんぶたててやるからね。
 そうしてこのこのせわはおれがなんでもするからね。」
“薄らの来渦” は僧を “上人様” と呼ぶ。
稚児に売るよりずっと多くの金子を得た
親のいいつけを未だ守って。

さぁそれからときたらこのふたり
どこに行くにも何をするにも
どちらがどちらの影法師。
尤もしいらに連れられて浜辺に下りた時は別。
するするとわだつみに入り
まるで人魚のように波を我が物にその身をまかせ
その動きたるや地上にいるより軽やかに
きゃきゃと喜びの声をあげ手招きするしいらに
来渦は何とか近づこうとするのだけれど
あぁ、どうしてこんなにも波が恐い、水が怖い。
とうとう来渦は泣き出す始末。
そんな来渦を見たしいらは
ゆっくりと浜辺に泳ぎ戻り
そうしてまたふたり手をつないで歩いてゆく。

決して返事をしないしいらだけれど
来渦はいつも優しく話しかけ
そうしてしいらが微笑み返せば
それこそ来渦の顔に浮かぶ
満面の笑顔ときたら。
僧の、これこそ外国に伝わると云う
天の御使(みつかい)のようだと
こころに思うのも無理からぬ。


さてそれからというもの
豊漁に豊漁が続き村は自然と栄えゆく。
これも皆あのわだつみよりいでたかの
しいらの恩恵かも知れぬ。
深い緑の髪に瞳
言葉のひとつより話せはせず
おまけに生魚ばかりを血を滴らせ喰らうとあらば
妖かしの魔が化身とただ
怖れられるばかりであったけれども
もしかすればあれこそが
大海神様の御使いの媛やも知れぬ。
そうして今や獲れたての魚運び来て
しいらに手を合わせる者さえ現れる。


そうして時は流れゆき
しいらは美しく成長する。
深き緑の髪は長く、断崖に吹く風にさらさらなびき
そのまま銀と波打つわだつみに
身を投げる事さえ怖れない。
波に揺られ体躯をまかせ
怖々に岸上より見遣る来渦に
手を振りにこやかな微笑みを投げやれば
その水を弾く美しい笑顔に
来渦もまた微笑まずにはいられない。


和やかに穏やかな日々がどれだけ続いたか
年老いた僧が重き病を患いつく。
ある日の事。
懸命の看病を泣きもて続ける来渦を
枕元に呼び座らせて
力なく掠れた声を絞り出して僧は言う。
「のう来渦、うつくしい心根持つ来渦。
 お前のお陰でわしはこうして
 心やすらかに御仏の来迎(らいごう)をお待ち出来る。
 ただひとつの心残りはしいらの事。
 のう優しい来渦よ、約束しておくれ。
 わしの居なくなったそのあとも
 ずっとしいらを守り続けると。」

泣きじゃくり体を震わせながら
僧の肉のごそりとこそげ落ちた
骸(むくろ)のような手を取って
しゃくり、しゃくりあげながら来渦は言う。
「しょうにんさま、しょうにんさま。
 おれはやくそくする、やくそくするよ。
 かならずまもる、しいらをまもる。
 どんなことがあってもしいらをまもる。
 ……ありがとうしょうにんさま。
 うすらのおれのせわをありがとう。
 しいらにあわせてくれてありがとう……。」

 
僧の弔いには村人がこぞって参列した。
わぁわぁと高い泣き声あげながらも
日々僧と共にあげて来たお経を唱え
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と連呼して
土葬に桶埋めるまでを付き添いながら
一方に人混みをひどく嫌い
それらの一塊から一歩も二歩も
離れたところにただぽつんと
やはり物言わぬまま立つばかりの
しいらの元に駆け寄って
時に慰めるかに抱き締める。
その両方を懸命に
こなす “薄らの来渦” の姿
そうして自然我が胸の前
合掌して目を伏せるしいらの姿を
その伏せられた瞳から涙の雫伝うのを
見れば村人達の目にも自然涙が溢れ出し
ただ胸の詰まる思いのなかに
こうも思わずにはいられない。
それもこれも僧の徳あらばこそ。


さてこれもまたどうしたことか。
その後あれほど恵まれた
わだつみの幸はまるで
僧と共に姿消してしまったかのよう。
来渦は祈る。
ただひとり断崖に立てられた
僧の卒塔婆を前に祈る。
けれども不作はやみやらず。
そんな中でもしいらといえば
断崖より身を投げいとも楽々と
自分の獲物を手に入れる。
岸辺にそれを見ている村人達の目。

そうしてとうとう時が来る。


空に風に、その気配のかけらもなかった。
だから皆が舟を出した。
突然の大時化(おおしけ)。
潮に飲み込まれ帰らぬ人となった者の数
両手でなど到底足りぬ。

何故だ、何故だ?
そう、理由はひとつ。
今までの豊漁はただ僧の徳のお陰。
あれはやはり忌まわしきわだつみの妖かし。

だが僧は
あれに大層愛おしく接しておられた。

何をいう、何を言う。
それこそ僧の法力にあれを封じ込めていた証拠。
そうよ、 “薄らの来渦” をつけたのも
ただ見張らせていただけの事。

殺せ、殺せ、あれを殺せ。
辱め殺せ。 皆で辱めそうして殺せ。
艶めかしい柔肌見せつけ惑わせる化生の物。
今日命を失った男達の分まで。

憎悪の狂気は人のこころに
いともたやすく伝わり染まり
その瞳々に宿るはそれこそが魔。
ほくそ笑む、高笑いに笑う魔。

止めに入るは当然のこと来渦ひとり。
日々力仕事を一手に担って来た強力(ごうりき)も
重き櫂自在に操る十数本の腕の前には歯も立たず
腕を、足を折られ尚抵抗しても
小屋の扉うち破られるのは時間の問題。

男達が扉破り侵入したその瞬間
しいらは意を決し
蝋燭をふうと吹き消して
目を闇にまどわせたその合間に
その下は真っ逆さまにわだつみの
窓開け放したかと思えば
しいらの白いからだはあっという間に
朔月の無明の闇の波の中。

「しいら!」
「ふん……小賢しい。」
「どうせすぐそこらの浜に泳ぎ着く。
 そちらに先回りをするか?」
「ははぁ。 それも面白い。
 さすがの “薄らの来渦” も両足が折れたとあれば
 そこまで追っても来られないしな。」
 
だがしいらは戻らない。
三日……十日……十五日……。
次第次第と最早しいらは
自らに命を絶ったと人々の腑にも落ち
そうすれば心持ちの悪いのは
“薄らの来渦” をああまで責めた事。
第一にあれはひとり僧の世話を良くした。
ただ水が怖く頭が少し弱いだけの気の良い奴。

たずねゆけばしいらの居ない小屋の中
“薄らの来渦” は泣いていた。
錆色の血痕をあちこちにこびりつかせた
痩せこけた体をいざり、いざり
糞尿のひどい匂いにつつまれて。
「ごめんしいら……ごめんしいら……。
 しょうにんさまごめんなさい……。
 おれはやくそくをまもれなかった……。
 ごめんなさい……ごめんなさい……。
 しいら……しいら……ごめんしいら……。」
うわごとのように
つぶやきながら泣いていた。

自分達は何をしてしまったのだろう。
村人達にようやく真の正気が戻り来る。
要らないとまるで子供のように
だだをこねる来渦の口元に
飲み物を流し込み食べ物をやんわりと押し込んで
体を拭き心を込めて看病をする。



さてところ変わって
ここは海底、龍の宮。
人智のあずかり知らぬ場所。

「あの海域に我が一切の神力用いざるは
 我が愛娘たる豊玉(とよたま)も知るところ。
 のう湍津(たぎつ)
 これで得心したであろう。
 人の世に運命(さだめ)は決して変わらぬもの。
 その命幾度やりなおそうとも
 そなたは十六の歳に終(つい)を迎える。
 ……この常世の宮に居らば
 永遠(とこ)の美しさに永らえられるのならば
 何をそのように泣く事ぞあろう。」
大海神の低く豊かな声色は
海底を伝い水の間にまに反響する。

「いいえ大海神様。
 私の涙はそのような故にはありません。」
 
ぽとり……。
湍津と呼ばれたしいらの目より
神水鏡にひとつぶ雫が落ちると
あれ何とも面妖なこと
しいらの身を投げたその水面(みなも)に
ちいさな雲珠(うず)が巻きおこり
その回転はいつまでも。



村人がそれに気付くのはまもない事。
これはしいらの想いの残響か
それともただの偶然か。
どちらにしても畏れ多く
近寄る事もままならぬ。
また実際にその傍を
泳ぎ雲珠に飲まれたままに
帰らぬ者もひとり、ふたり。

それから三月ほどもして
ただ泣き暮らす来渦の手足に
不自由もそれほど感じなくなった頃
夢のなかにしいらが立つ。

「来渦、来渦。
 いとしい来渦。
 どうぞもう泣かないで。
 私は少し故あって
 戻るわけにはゆかないけれど
 こうしてちゃんと過ごしています。
 その証をあの雲珠の
 底に隠しておきましょう。
 新月の日の夕凪のころ
 雲珠は動きをぴたりと止めましょう。」
 
「しいら!」
飛び起きればひとり小屋のなか。
急ぎ窓辺に近付き下を見る。
目の眩む高さに人の掌ほどの大きさの雲珠。

指折り数え
昨日は晦日月。
夕暮れを窓際にひとり待てば
暮れなずみゆく夕陽を浴びて
茜の金に波打つ雲珠が
夢中(ゆめなか)のしいらの言葉のとおり
ふうとその動きをとめる。

こくり……生唾を一度飲み込み
そうして来渦は力の限り目を綴じて
そのまま窓より身を投じる。

ええ? これがあんなにも怖れていた
水の感触……?
こんなにも肌に優しく
ひんやりと心地も良くにまとわって
まるで守ってくれているよう。
底に……底に……。
来渦はゆっくりと落ちてゆく。

そうしてたどり着いたその場所は不思議にも
まったく呼吸の不自由がない。
そうして見遣れば足元に落ちているのは
綺羅と虹雲の彩り見せる貝の殻
真珠は来渦の親指の爪ほどもあろうかとの大きさに
またこちらには紅にまばゆい珊瑚の柱。
なんと綺麗なと手に取れば
「それは来渦のもの。」と
それは夢中に聞いたあのしいらの声。

「しいら!? そこにいるの?」
「いいえ来渦。
 私は別の場所に居て
 神水鏡よりあなたをこうして見ています。」
 
手に取る珊瑚を
そっと元の場所に置く来渦を見て
思わずしいらは言葉を続ける。
「そのわだつみの宝は私からの贈り物。
 受け取ってはもらえませんか?」
首を横に振りながら
来渦は今にも泣き出しそう。
「これはしいらのものだから。
 ……ねぇしいら。
 おれはこんなにうすらだから
 しいらがどこにいるかもわからないけれど
 しいらがめのまえからいなくなったそのあとに
 こうしてはなすことができたなんて
 そのほうがまるでたからのよう……。
 ほんとうにゆめのようなたからだよ……。」
 
 
ふと気がつくと
来渦は波に浮かんでいた。
すう……と手を足を動かすと
まるで地上を歩くかに
軽々と泳ぐことが出来ている。
そうして難なく浜辺に泳ぎついたのだけれど
初めて泳げたことなどは
まったく気にもつかぬほど
来渦のこころはただひとつ。
しいらのこえ……ほんとうにきれいだな……。


こうして泳ぎを会得した
来渦は村人にも温かく迎えられ
漁の舟に乗り込みもして
下働きに精を出し
活計(たつき)を得はするものの
やはり村はずれのあの小屋にただひとり
住みつくことはやめもせず
隣の荒れ寺の寺守りの
役目を果たして日々を過ごす。
僧の卒塔婆にはたむけの花の
一日も欠かす事のなかったという。

ただ新月の日の夕凪のころ
いつも窓よりわだつみに
身を投げる来渦の姿を村人達は
不思議なことと見守りつつ
時には直に訊ねもしたが
ただただ来渦は微笑むばかり。


そうして歳月は流れゆき
頑丈を極めた来渦にも老いは平等におとずれて
とうとう床に伏せ動けぬ時が来る。

ああ、しいら
もうそこにはいけなくなった。
ありがとう、ありがとうしいら。
いつもほんのすこしだけれど
こえがきけはなしができて
ほんとうにおれはしあわせだったよ。
ありがとう……こえもかみも
なにもかもがきれいなしいら
さようなら……さようなら。


龍の宮の
あの頃と少しの変化もない
うつくしき湍津媛のまなじりより
涙の雫が一粒神水鏡の上。

そうしてあの雲珠が消え
神水鏡より景色が消えるとともに
その骸より
来渦の魂が魄がふわり浮き上がれば
それらは僧の待つ極楽浄土に。


しょうにんさま! しょうにんさま!
これ来渦、そう声を荒げるでない。
でもおはなししたいことがいっぱいで──。



ざん、ざんと波のおと。
寄せてはかえす波の音。
今はむかしの、凪語り──。





-タヒチの言葉で「魚」を「シイラ」と云うのだそうです-



-end-
written by Ms. moon in the dusk