『桜窓』


冬枯れの、枯れのなかより生緑の
あざやかな芽生えちらほらと
見ゆる蔦の縦横に
その身重ね、重ねあわせて土色煉瓦の上を這う
古き、古き洋館の
ちょうど中二階にあたるであろう場所に、
その窓はあるのです。

洋館と、その名の通りその窓も
上を半円の嵌め殺し
そうして下には右に三つ、左に三つの窓枠の
逆方向に観音開きの分厚い硝子。

その窓の、窓辺に影とみせるのは
いつも、いつも同じ姿
少年のようで、少年になく
青年でいて、青年にない年頃の
白色に、ごくごく薄い空色の
がうんを羽織る、同じ姿。



ああ、あなた、もう今なれば
その閉ざされた窓よりも
決して開かれぬ窓よりも
わたしの姿が見えるでしょう。

陽炎ゆらぐ春の気の
空一面に、地の内までも
湛え湛えて満ちあふれ
蕾の殻をうちやぶり
花と開いた千の万の
仲間とともに
私の姿が見えるでしょう。



あぁ、今年も桜の咲く
庭の池畔の、一本桜の花の咲く。


びにぃるのしぃつを敷いて、その上に
父様、母様、姉様と
籐かずらの篭にはさんどうぃっち
母様と、姉様のかちゃかちゃと
うぇっぢうっどの音をたて
用意万端整って
あとは紅茶の蒸しあがる
時間を待てば良いものを
僕の手はそれよりも先に篭のなか。

「ねぇ、かあさま。
 ぼくは広い庭のなか
 この桜がいっとう好きだ。」
「まぁ、あなた。
 それはこうしてはしたない
 楽しみもあるからなのでしょう?」

呆れ、叱られ、頬ばって
皆の明るい笑い声
ただそれのみの薄霞みの
空に響いたあのときの

それから何度、咲いたのだろう。
窓よりは幾度、眺めただろう。

──そうしてあとには──。


発作、一度目の。
「どうぞ、ご無理をなさいませぬよう。」
発作、もう何度目やも知れぬ。
「どうぞ、ご無理をなさいませぬよう。」
あぁ、もうすまい。
二度と、二度と、何もかも。



ああ、あなた
せっかくこうして一年の
長きわかれのそのあとに
再会の願い今こそに
うつつと叶えみてみれば
あなたはいまだ能面の。
どうすればよいでしょう
わたしになにができるでしょう。


春の風は戯れ好き
あちらにふわり、こちらにそよと
生まれたばかりの蝶の羽根
飛び方を知らぬをからかって
色とりどりに誇らしく開くはなびらに囁いて

その息吹のひと吹きを
肌身に感じることさえも
自らに止(と)めてしまったあなたに
わたしはなにができるでしょう。



戯れの、過ぎた我が子を戒めるかに
春嵐の来訪こそは突然に
がた、ごと、と鉄の窓枠は音をたて
べっどに眠る目も醒めて
十六夜月の煌々と
闇夜に照らす窓のそと
見れば桜のはなびらの
月のひかりに仄白く
満月を飲み込んだかの池の波
舞台と舞うこと、狂うがごとく
舞い舞いあがり、舞い落ちて
命撒き散らすさま、狂うがごとく。



ああ、あなた
どうぞ気落ちをされないで
まだわたしは事切れてなどはいないのです。
この水は、流れゆきてはゆかないけれど
それでもちいさな花筏
みなもの上にてつくりましょう。
またひとつ、別の姿をつくりましょう。



朝靄の、みなもに濃ゆくかかるころ
昨夜の踊り狂うた夢のあと
痛々しくも白桜のはなびらの
今やしかばねとなすばかり。

花筏などとは愚かしい
ゆうるりと流れてこその筏風情
あれは屍、その山よ。


開くを禁忌の窓の外
それでも眺めぬ訳にはゆかぬ。
何故、と問うか。
他にすることなどないゆえに。
出来うることなど何ひとつ。
ほんとうに?
ああ、本当だ、ほんとうだ。


夕刻の、薄闇ちかくせまるころ
ふと見遣れば窓のそと
どこからともなく空を飛び
やって来たのは一羽の白鷺
はたはたと翼はためかせ
池のなかへと舞い降りる。


「あ。」
少年のようで、少年にない
青年にあり、青年でない男の口より
思わず言葉にならぬ、音の出る。

水底浅い池の端に
降り立った白鷺は
ただいちど、獲物めがけてみなもを裂き
くちばし投じたかと思えば
見事捕らえた獲物を飲み込み
その瞬間に水のなか
ただ一度おおきく羽ばたきをすれば
それは花筏の端を叩いて形骸を
乱し散らせに散らせたままに
颯っと空(くう)へと風に乗り。


白鷺の、濡れ羽を座布団の白桜の
ひとひらのはなびらの
生を受けたる木の枝よりも
遥かはるかに高い空
そをゆく姿を窓の内
男はずっと追い追って
それでも見失いそうになれば
白く細き腕に渾身の力をこめて
ぎいいと重くに錆び付いた
掛け金を開けとうとうに
自らの手に窓、開け放ち
半身踊らせ尚、目に追った。



ああ、あなた
わたしはあなたのもとを
こんなふうに去るなどとは
思いもよらぬことであったのですけれど

その庭の土に落つれば土となり
池に落つれば沈みの後に
肥となりては還りゆきるのだけれど

こんなにも遠くに来てしまった今となれば
もうそれもただ夢の先

でももうすべてはよいのです。


なんということ
とうとう見ることができました
わたしはただ
あなたの瞳のそのなかの
輝きをこそ見たかった。


もうなにも、なにひとつ
思い残すことなどありません
さようなら、さようなら。



春の風は戯れ好き
男の髪をもてあそぶ
男の頬にふきつける。

白桜を乗せた白鷺は遥かに遠く
もはや点にさえも姿はなく。

ようやくと乗り出した身をおさめ
ぎいと軋みの叫びをあげる窓を閉め
乱れた髪をただいちど
両の手に整えれば
思わぬ違和感にふと見遣ると
手のひらにこびりついた錆のあと。

あぁ、何年ぶりのことであったのだろう。


「死した桜花の今ひとたび
 あのように美事に天翔るとは。」

ぽつんとそうつぶやくと
それはたましいの上気のそのゆえか
それとも戯れ好きの春の風のいたずらか
薄桃色をきざした頬に
やわらかな、やわらかなほほえみを
乗せて男は視線を落とす。
まこと恥じ入るこころにさえも
吹き消し得ぬほほえみに、瞳を落とす。




窓のそとには
新緑を待つ桜ばかり。






written by Ms. moon in the dusk